華京騒動録   第一話 武侠と女優

三 親の心子知らず、子の心親知らず
 からり。
 乾いた音を立てて、祥竜(しょうりゅう)は自分の起居する部屋の扉を開く。
 途端。
 目の前が真っ暗になった。次いで、全身に物凄い圧迫感が襲ってくる。絞め殺されるのではないか、と思うほどに強烈で――それは、熱烈な抱擁、だった。

「おかえり、祥竜!!」
「ぎゃーッ!?」

 その、さも嬉しそうに自分を抱きしめる相手の正体を、確認する必要は、祥竜には無い。
「……お、……おや…………」
 ぐ、と拳を固めるや否や、まっすぐに祥竜はそれを放った。拳法家の「模範的な手本」にでもしたくなるような、充分に体重のかかった、綺麗な型の一撃である。
「親父ぃーーーーーッ!!」
 派手な打撃音と共に、祥竜の身は自由を回復した。

「最近、祥竜君、冷たい……」
「るっせぇ、この王八(馬鹿)親父! 大概にしろッ!!」
 祥竜に背中を向けて、そう、ジト目に涙すら浮かべていじけて見せるのは、彼の父親、項貴涼(こう きりょう)だった。今年で三十七歳になるのだが、見た目はどう見ても二十代後半で、祥竜ほどの年齢の息子がいるとは、とてもではないが思えない。
 そして、この父親こそが、祥竜が故郷を出て華京で暮らす理由のうちで、最も大きな要因なのである。

 大体、普通の神経を備えた人間であれば、加冠を迎える(成人)年頃にもなって、毎日、自分の父親に「祥竜、祥竜〜!」などと構われて(控えめな表現)は、大変迷惑であろう。
 親に対する「孝」が、この()の大陸では、最大の美徳とされる。例え、至尊(しそん)の位にある皇帝であっても、それは変わらない。しかし、祥竜ほど短気でない人間でも、もし彼と同じ立場に立たされたら、普通は、自分の境遇を我慢するのに、苦痛を感じるのではないだろうか。
「何を言うか、親一人子一人、しかもたまにしか会えないというのに、親が子に愛情表現を示すのは当たり前だろう!」
 しかし、いじけていたと思ったら、あっという間に立ち直って、貴涼は、がし、と祥竜の肩を力強く掴む。

 その、過剰な「愛情表現」に辟易して、(けい)を出てきたんじゃねえか……。

 祥竜は、心の中で呟いた。どうせ口に出して言ったら、この父はまたいじける。
 貴涼の妻、祥竜の母である女性、徐麗佳(じょ れいか)は、もうこの世にいない。祥竜を産んだ後すぐ、産褥(さんじょく)で亡くなったからだ。だから、祥竜は母親の顔を知らないが、母が大層美しい女性であったことは、周囲の人が口を揃えて言うので、確かなことなのだろう。
 麗佳は、小唱(こうた)の名手だったという。彼女の唱を耳にした貴涼は、その歌声と、彼女の美しさに、有体に言って一目惚れした。幸い、思いは通じ合って、二人は結ばれたのだが、その幸せは長続きはしなかったわけである。
 その分、麗佳の遺していった、亡き妻に(外見は)よく似た、息子の祥竜に対する貴涼の溺愛ぶりは、ほとんど常軌を逸している。貴涼はその愛情を、自然で当然と思っているだろうが、その認識は貴涼本人だけのものだ。当の息子の祥竜が、堪えきれずに家を飛び出す始末なのだから。

「たまにって、親父、先月も来たばかりだろうが。そんなに簡単に、ほいほいとここまで来るんじゃねえっつうの!」
「祥竜……お父さんは悲しいぞ、そのような意地っ張りを……。昔は、あんなに素直で、可愛い子だったのに」
「あー結構結構、そんじゃ今は可愛くねえってことだな」
 祥竜は、乱暴に貴涼の手を振り払う。
 が、貴涼は最愛の息子の、そんなつれない態度にも、父親の余裕を見せて笑ってみせた。
「おや、銀三百両は要らなかったかな?」
「……クソ親父……」
 
 ほとんどの武侠は、実家の資産を分与されたりして、それで生活している者が多い。いくら自分の武芸を活かして報酬を得たとしても、定期的にそのような仕事があるわけではない。しかも、あまりあくせくと働かないのが、武侠の常だ。逆に言えば、資産があってゆとりがあるからこそ、武侠、というような生き方が出来るわけである。その分、弱者のために武芸を振るったり、資産を使うことを求められるのだ。吝嗇(けち)は武侠にとって、最も悪徳とされる。
 そういう武侠の一人である、祥竜の場合は、実家からの仕送りが最も大きな収入源になっている。そのおかげで、糊口(ここう)をしのぐに精一杯、というような破目に陥らずに済んでいるのだ。
 勿論、祥竜も自分が父の援助の下で、今の生活を送ることが出来ている、ということは分かっている。よく分かっているのだが、折角、華やかなりし国都華京で、自由な生活を満喫しているのだから、ここまで来て、金銭を盾に、景での日々を髣髴(ほうふつ)とさせられたくない。そう思うのが人の感情というものだ。
「分かったから、もう帰れ。親父がふらふらうろついてるだけで、迷惑するのだって大勢いるんだからな!」
 面倒くさくなったのか、犬でも追い払うように、祥竜は投げ槍に言いながら、しっしっ、と手を振った。
「やはり、心配してくれてるんだね? 素直じゃないんだからなあ、祥竜は」
「ぬかせ。周囲(まわり)を心配してんだよ、俺は! 景で大人しく職務を(まっと)うしてろってんだ」
 またしても父の愛の抱擁を受ける前に、さっと祥竜は身を躱す。
「そうもいくまい、これも責務だ」
「……父親としての、とか言ったら張り倒すぞ」
「何でそういうこと言うかな。照れなくてもいいんだよ、祥竜」
 思わず、祥竜は右手を拳の形に握り締めた。
 実際、自分の父を嫌ったり憎んだりはしていない。していないが、この父と同じ血が、自分の中にも流れているという事実に、祥竜は時々、眩暈に近いものを感じる。

 俺が、昔に比べて「素直」じゃなくなったっていうなら、それは絶対、親父のせいだと思う。



 剣の研ぎを終えて、秀昂(しゅうこう)は祥竜から預かったそれを、革拵(かわごしら)えの鞘に納めた。
 初めてこの剣を目にしたとき、刀剣の輝きをこよなく愛する、武器屋の主人・王武承(おう ぶしょう)は、
『おい、祥竜、これ一体何処で手に入れたんだよお前? こりゃあ、名剣だぜ。一介の剣士風情じゃあ、到底、おいそれと手に入れられる代物じゃあねえぞ』
 と、ひどく興奮していた。武承は、その趣味のためか、二十九歳の若さに似合わず、相当に鑑定眼がきく。それに対して祥竜は、
『武術大会の賞品で手に入れたんだよ、いいだろ?』
 あっさりと、笑って答えていた。

 多分、祥竜は、何かいわくのある身分出身なのだろう。少なくとも、武侠として不自由なく生活していけるほどには。この剣も、そういう出身の関係で、手に入れたのかもしれない。
 それを、秀昂は詮索しようとは思わない。祥竜が自分から口にしないのは、その生まれが本人にとって、あまり歓迎すべからざるものなのではないか、と推測できるからだ。
 それに。
 祥竜の普段の言動を見ていると、本当に彼が「いい生まれ」なのかどうか、自信がなくなるからでもある……。


 などと、ぼんやりと秀昂が思っていると、どたどたと賑やかな足音が、二階から降りてくるのが聞こえてきた。どうやら、祥竜は父親を振り切ることに成功したらしい。
「秀昂ッ!!」
「何だ祥竜、どうかしたか?」
「どうかしたか、じゃねえよ! 何でお前、親父が来てること、先に言ってくれなかったんだ!?」
「俺は言おうとしたよ。でも、言う前にお前が上に行っちまったんだから、しょうがないだろ」
「……」
 別に、秀昂の口調は嫌味でも辛辣でもなく、ただ単に事実を述べただけのものだった。が、祥竜としては、だからこそ、反論を封じられてしまった感がある。
 そのついでに、思わず動きまで止めてしまったため、祥竜は背後から迫る危険に気付くのが遅れた。
「祥竜ー!」
「だーッ、いちいちくっつくなッ!!」
 背中から抱え込まれてしまった祥竜は、肘打ちを食らわして、貴涼の腕を自分から解かせる。
「だからといって、いちいち暴力に訴えるのは、父は良くないと思うぞ、祥竜」
「やかましい、帰るんなら、とっとと帰れ!」

(しかし、毎回毎回、飽きないよなこの親子も……)
 秀昂のような第三者から見れば、顔を会わせる度に同じやり取りを繰り返す、この貴涼と祥竜の父子は、呆れ半分、可笑しいのが半分、といったところだ。もっとも、笑っていられるのは、自分が第三者であるからであって、祥竜に言わせると、「一度、俺の立場になってみやがれ」ということになる。

「では――」
 笑いながらも、不意に貴涼は真顔になった。そうすると不思議なもので、整った眉目のせいか、気品の溢れる貴人に見える。もっとも、
「私は戻るが、祥竜。体には気を付けて、くれぐれも怪我や病気をしないように。あまり無茶な真似はせず、…………」
 こんこんと言うことは、やはり息子を溺愛する言葉であることに、変わりはなかったが。
「ええい、俺は嫁に出される娘か! もういいから早く帰れ」
 頭痛を堪えるような表情で、祥竜は額に手を当てた。
 その祥竜の肩に手を置き、貴涼は秀昂に向かって頭を下げる。
「秀昂君、この子をよろしく頼むよ」
「は、はぁ……ご丁寧に」
「じゃあ祥竜、息災でな」
 貴涼は身を翻す。だが、意外にも、祥竜は、
「待てい」
 と、父親の襟首をむんずと掴んだ。ただし、それは貴涼の帰りを阻む意図などでは全くなく、苦情を言うためだった。
「表から堂々と出入りすんなって、いつも言ってるだろうが! 裏口使え、裏口!」
「私は後ろ暗い身ではないよ、祥竜。人の恨みを買ったことも無いし……」
「立場を考えんかい! 親父はよくても、親父以外は迷惑だっつうのに!」
 思わず、貴涼の胸倉を掴みながら、祥竜は相手に自覚を促すように念を押す。この父親を相手にしていると、時々、自分は物凄い常識人なのではないか、と思う祥竜であった。


 まるで、それが今生の別れででもあるように、いかにも名残惜しそうに貴涼が(裏口から)帰ると、祥竜は「あーもう、疲れた……」と、手近な(とう)(長椅子)にどっかと腰を下ろした。
「ったく、厄日だぜ、今日はよ……」
 葉喬に勝負をふっかけられ、暁華に仕事の話を持ちかけられ、父の貴涼が京師(みやこ)に来ている。同じ一日にこれだけの、あまり有り難くない出来事に遭遇し、祥竜は思わずぼやく。
 そんな祥竜に向かって、秀昂はからかうように言った。
「何なら、待崇(たいすう)にお祓いでもしてもらうか?」
「冗談じゃねえ、あの腐れ道士にそんなこと頼んでみろ。余計に災難がついてまわる!」
 腐れ道士呼ばわりされた劉待崇(りゅう たいすう)は、道号(どうごう)翠海(すいかい)という、秀昂の幼馴染の道士である。術や仙丹の研究に熱心で、道士としては優秀なのだが、熱心なあまりか(?)、研究成果を、断りなく他人の身で実験する性癖がある。そのため、実際に、何度かその被害に遭っている祥竜は、「腐れ道士」と呼び、「関わり合いになりたくないのに、腐れ縁」のうちの一人に分類している。ただし、この世の中には、「類は友を呼ぶ」という言葉もあることを、忘れてはなるまいが。
 暫く、脱力しきったように、半分ずり落ちかかった格好で、榻の上に体を投げ出していた祥竜だったが、大儀そうに立ち上がった。
「晩飯の時間になったら、起こしてくれや」
 秀昂にそう言い置いて、今度こそ、昼寝をしようと祥竜は二階の房室(部屋)へ向かう。疲れた声を出しながら、それでもなお、しっかりと食欲は失わない辺りが、祥竜らしいといえば、祥竜らしい。

 (しょう)(寝台)にごろりと横になると、祥竜はすぐに目を閉じた。
(良くねえことの前触れ、じゃなかったらいいけど、な)
 縁起など、普段は少しも気にしないのだが、何となく、不吉な予感を拭いきれないまま、祥竜は緩やかに眠りに落ちていった。

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Copyright (C) Ryuki Kouno