Je te veux

03


「冗談ではない」
 士郎が何を求めているか分かった上でアーチャーは、相手の熱を冷ますようにあくまでも冷淡に言う。
 そうやって、足を掴んだ手を力任せに振り解こうとしたが、士郎は全力でアーチャーの脚にしがみついてきた。というよりも、絡み付いてきた。バランスを崩して転倒しそうになったアーチャーは、すんでのところで耐える。
「は、離せ、蛸か貴様は! やはりまだ酔っているだろう!!」
「酔っ払いはこういう時、酔ってないって主張するんだよな」
 全身で情熱を訴えかけながら、士郎は、力を込めてアーチャーの自由を奪おうとする。言葉でアーチャーを引き止められないのなら、行動に出るまでだ、と言わんばかりに。
「……アーチャー、後悔してるのか。俺とのこと」
「後悔だと? しているに決まっているわ、このたわけが! 貴様、何処まで馬鹿なのだ!」
 アーチャーにしてみれば、愚問もいいところの問いを投げかけられて、吐き捨てる。
 好きだ、と囁かれて、確かに抱かれた。けれど、あれは、そもそもは魔力補給のためだった、筈だ。
 士郎をこんなに自分に縛り付けることになるのなら、あの時、死に物狂いでも抵抗すればよかった。そうなれば現界していることが危うくなるほどに、残った魔力を不用意に消耗したかもしれないが、それならそれで、こういうことになるよりは、よほどましだった。
 どうして分からないのだろう。この世に属さない者に執着したところで、それは知らなくて良い後悔を招くだけだというのに。
 ましてや、今の士郎が違う道を歩もうとしているとはいえ、アーチャーは英霊エミヤ、かつては確かに衛宮士郎であった者だ。自分自身でなくて、自分自身である者を求めてどうしようというのだ。――しかも、それを秘めているならまだしも、進んで暴露するとは一体何事だ。
「俺は後悔してない。間違ったつもりもない」
「その自信は何処から湧いてくる。いいから離せ!」
 鋼の瞳に剣呑な光が浮かぶが、士郎は意に介さない。間違ったつもりもないという士郎の言葉に、間違いではなかったかもしれないが、決して正しくもなかった己の人生を思い起こさせられて、アーチャーは小さな苛立ちを感じる。
「アーチャー、俺はお前がいい」
 静かに、士郎はアーチャーに告げ、(ぬか)づくようにしてアーチャーの素足の爪先に口づけた。
「……っ!!」
 さながら、貴婦人に愛を乞うように。びく、とアーチャーが体を強張らせる。士郎は、アーチャーの脚から手を離して、立ち上がった。
 決然とした表情で、頭一つ分上にある、アーチャーの双眸を士郎は真っ直ぐに射抜いた。
 アーチャーは、思わず後退る。士郎から逃れるように。それを許すまい、と士郎はアーチャーに向かって前進してくる。
「アーチャー」
 士郎の声が呼ぶ。熱い声。
 どん、とアーチャーの背中に窓ガラスが当たった。
 追い詰められる。
 蜃気楼のように美しい理想を夢見る、純朴な少年だと思っていた相手が、強く恋焦がれて求める、生々しい本能に満ちた男の顔をするなんて。誰だ、これは。過去の自分は、多分、これほど烈しい感情に衝き動かされたことは無かった。こんな顔をした衛宮士郎は、知らない。剣を交えた時でさえ、士郎はもっと無垢な顔をしていた。
 エミヤシロウは、衛宮士郎をよく知っていたはずだった。けれど今、アーチャーの前に居るのは、彼の知らない男だった。
 何故だ。何故、そこまで、ここまで。
 逃げられない。捕食される。他ならぬ、衛宮士郎に。
 霊体化することも考えられなかった。
 士郎に肩を掴まれて、アーチャーは窓に押し付けられた。
「あッ……!」
 ぬるり、と喉を舌が這う感覚。アーチャーの抵抗を封じるように、喉を辿った唇は、浮き上がった鎖骨にしゃぶりつく。
「嫌……だ、嫌だ、士郎……! ……嫌だ……、やめろ……!」
 アーチャーはどうにか逃れようと、身を捩る。構わずに士郎の手が、シャツの襟を開いて胸元に侵入してきた。
「ごめん、アーチャー、無理だ。……止まらない。このまま、抱かせて」
「……っぁ、嫌、だ……! 貴様、この……、馬鹿、変態、野獣、強姦魔にまで成り下がるつもりか……! こんな、廊下で……、や、めろ……!」
 素肌をやわやわと撫でられて、指先で擦られる。人としてそれは言われては駄目だろうという罵倒を受けても、士郎はアーチャーの胸に唇を寄せた。
「廊下じゃなかったらいいのか?」
「いいわけあるか……! 魔力不足でもないのに、何で男の貴様に抱かれねば……ア、や……!」
 胸の僅かに尖った部分を舐められて吸われて、アーチャーは抗議を中断させられた。膝から力が抜けそうになるのを、ガラスに寄りかかって懸命に持ちこたえる。
「俺、お前を抱いてからずっと、お前のことばっかり考えてた。考えないようにしたけど、無駄だった。お前が欲しいよ、アーチャー」
 厚い胸板に顔を埋めて、士郎は熱っぽく直球な求愛を口にした。
「お前が好きだ」
「士郎……。……それは、違う。お前の未来の可能性の一つであるオレが、お前の理想の姿に近かったから、お前はそう勘違いしてるだけ、だ。オレ達が切嗣の、正義の味方という理想に憧れたのと、同じことだ」
 だが、アーチャーは士郎を押し返して、突き放そうとする。心理的にも、物理的にも。
 分かっている。
 士郎が本気であることなど。本気でなければ、好きだなどとは言えないことなど。その出発点は憧れだったかもしれなくとも、いまや遠くから眺めていた憧憬は、相手への渇望を抱く生身の感情へと変化を遂げている。そうでなければ、異性を知っている士郎が、同性であるアーチャーにわざわざ欲する手を伸べて、激しい熱情を傾けてくるわけがない。例え、思春期真っ盛りの若気の至りであるとしても、今、士郎は本気でアーチャーを求めている。
 けれども、アーチャーには士郎を受け止めきれない。己は、人ではないのだから。いかに生前の肉体を精巧に模した、血肉持つ身とはいえども、所詮はこれは魔力で編まれた仮初の体だ。今、ここに存在しているのは、生きているからではなく、唯の現象にすぎないのだ。
 こんな相手を好きでいたって、士郎は幸せになんてなれない。そんな未来は望まない。
 自分では得ることすら考えなかった幸せを、この士郎は得られるのだ。彼ならば、人として当たり前の幸せと、正義の味方という理想を両立させる生き方が、きっとできる。その士郎の未来に、自分が影響力を濃く影を落とすなんて、そんなことを自分自身に許したくない。
「――っ」
 服の奥に忍び込んできた手に肌をまさぐられて、息を呑む。思考が散漫になりかかるのを、理性を総動員してかき集める。
「やめ……」
 首筋に、噛み付くような口付けを受ける。アーチャーがいつその身から失ったのか思い出せない琥珀色の眼が、ただ一途に、お前を欲する、と見上げてくる。
「アーチャー……」
「士郎、やめろ……!」
 力が抜けかかる両腕を突っ張って、アーチャーは士郎を自分からもぎ離す。ずるずると背中からずり落ちながら、アーチャーは士郎から顔を背けた。
「嫌だ……士郎、もう、これ以上、オレの中に入ってこないでくれ……!」
 守護者となり、世界の意思のままに、ただ力を揮うことだけを求められて、磨耗していく己。
 それでも、ずっと大切に心の中に秘めてきた、小さな思い出の箱がある。この思い出だけは、世界にだって決して奪わせない、アーチャーの、エミヤシロウの一番美しく綺麗な思い出。磨耗の果てに消滅する時には、せめてこの想いを抱いていたいと。
 金の髪と翠の瞳の、美しい少女の面影。
 セイバー。
 彼女を、愛していた。――愛して、いた、永遠の少女。
 この小箱には、セイバー1人しか納めておけない。これ以上、大切な想いを増やしてしまったら、自分はきっと、磨耗していくことに耐えられなくなる。士郎が見せてくれた答えを、また見失ってしまう。
 だから。士郎を、拒絶してしまいたい。それこそが、お互いのためだ。それなのに。
「だったら、俺のものに、なっちまえよ。アーチャー」
 士郎は、アーチャーの前に膝をつき、褐色の頬に手を添えて自分の方へと向かせる。
 アーチャーは、鋼色の目を見開いて、士郎を見た。
「な、にを……」
「お前の意思を尊重して、俺を好きになれなんて言わないつもりだったけど、そうでもしないとアーチャー、逃げようとするだろ。俺からさ」
 いかにも愛しい、という顔をして士郎が笑っている。訳の分からない息苦しさを感じて、アーチャーは眉間に力を込めた。
 俺のものになれ。それは、身も心も一切合財を奪ってでもお前を愛する、という宣言にも等しい。惜しみなく愛は奪う、と記したのは作家の有島武郎だったか。与えるのではなく、奪うと。
 どうすればいい。
 傲慢なほどのこの激しさが、決して不快ではない、なんて。
 アーチャーは、脳裏が眩みそうになるのを押さえつけて、低い声で言う。
「たわけが……。オレは、あまねく世界の所有物だぞ。分かっているのか」
「分かってる。けど、お前を使い捨てる世界の意思からなんて、お前を奪ってやる」
「オレは、セイバーやランサーのような真物(ほんもの)の英雄とは違う。世界の所有物でなければ、オレがここに存在するはずなど無いのにか!」
「それだけは、世界に感謝しなくちゃならないんだろうな」
 アーチャーに口づけようとした、士郎の動きが止まった。
 ひたりと、士郎の首筋に冷たい感触が与えられる。
 干将の刃が、士郎の皮膚をぎりぎりで傷つけない位置に当てられていた。それ以上、近づくなという意思表示。アーチャーが少し手を動かすだけで、士郎の首と胴は永遠に別れを告げるだろう。それでも、士郎は動じることなくアーチャーを見つめる。虚飾も偽りもなく、ただ真っ直ぐに。
「……何故だ」
 悲鳴に似た声だ、とアーチャーは自分で思った。
「何故、オレなんだ、答えろ士郎!」
「お前だからだよ、アーチャー」
「答えになっていない!」
「――エミヤシロウ」
 初めて、士郎がアーチャーを真名で呼んだ。自分の名と同じ、けれど違う名前を。
「だって、気持ちって理屈じゃないだろ。俺だって、理由なんてよく分からない」
「……お前は、本物の馬鹿だ」
 士郎に剣を向けたまま、アーチャーは力なく言った。あからさまな飢えを向けられているというのに、乾いていると気付かなかった心に水を撒かれているような気がする。
 本当は、士郎よりも自分の方こそが果ての無い大馬鹿者なのだろう。
 ただの一度も理解されない。
 生涯に意味なんて無かった。
 それをあるがままに受け入れていた筈なのに、理解と肯定を与えられて、この期に及んで心が震える。
 美しく可愛い彼女達よりも、彼女達の前で自分が選ばれた。理性が、それは許されないと叫ぶのに、感情が、それを受け容れてしまう。
 いつもこうだ。オレは何て、みっともなく矛盾だらけなんだろうか。
 そう思いながらも習い性のように、アーチャーは憎まれ口を叩く。
「救いようの無いたわけだ。お前の未来には、オレは存在し得ないというのに」
「今だけが今だよ。先のことなんか、その時になってみなけりゃ分かるもんか」
 士郎が口にするのは、生きている者だけが持ち得る特権、先へと進むことのできる道。もはや過去しか持たないアーチャーが、永遠に失ったもの。
 羨ましくはないが、その有りようを美しいと感じる。生者の命だけが持つ、美しい煌きだった。
「けど、今が無けりゃ、未来へなんて進めない。この先、気持ちが変わることがあったって、今、俺はアーチャーが欲しい」
 剣を握るアーチャーの手を、士郎の手が握った。
「……しろ、う……」
 人の命を奪うことを知らぬ手。数多の人の血に濡れ塗れたアーチャーとは違い、これからもきっと、人を殺すことは選ばないだろう手で、士郎はきっとこれから、自分の未来を切り拓いていく。英霊への道には繋がらない、自分のための人生を。
 アーチャーの手から零れ落ちた干将が、からりと乾いた音を立てた。
「あ……」
 そのまま、士郎に抱きすくめられて、唇を重ねられる。ただ触れるだけの、優しい口づけだった。
 アーチャーの胸の中にあるこの塊はきっと、愛というものではない。恋でもない。けれど、確かに嬉しいとも思う、この感情は一体何なのだろう。
 希望、なのだろうか。
「なあ」
 熱っぽく、士郎がアーチャーの耳元で囁いた。
「抱いていい?」
「……嫌だ」
 心底、負けた、とアーチャーは思い知る。だから、精一杯の虚勢を張った。
「ここでは、……嫌だ」
 本当に、つまらない意地だったが、はっきりとした承諾は言いたくなかった。
「じゃあ、俺の部屋で」
 先に立ち上がった士郎が、アーチャーに手を伸べる。
「……要らん。自分で立てる」
 すげなく言ったアーチャーは、何となく士郎の顔を見ないようにして体を起こした。
 どうかしている。アーチャーの冷静な部分が、自身を哂う。
 士郎との間の出来事がばれたその夜のうちに、また士郎と関係を持とうだなんて。
 ましてや、自分よりも年下で身体も小さい、何よりも男に、抱かれることを認めてしまった。正気の沙汰ではない。
「今更、やだって言うのなしだからな」
 アーチャーの内心を見抜いたように、士郎が背中から抱き込んできた。開いたままの襖の中に、士郎が自分ごとアーチャーの長身を押し込む。脚に触れる士郎の下肢が、既に熱を帯びているのを服の布地越しに感じて、アーチャーは僅かに顔を赤らめたが、幸い、士郎に背を向けている状態では見られる心配は無い。
 背後で、ぴしゃりと襖の閉まる音。
 退路は完全に断たれた。もう引き返せない。
「……お前の、その根拠の無い前向きさは、何処から出てくるんだ」
 せめてもの抵抗に、アーチャーはこれからなそうとする行為と、わざと関係の無いことを言う。
「別に、普通だろ。俺からしたら、アーチャーの異様に後ろ向きなネガティブ思考の方が、よっぽど不思議だ」
「……む」
 逆に、士郎に自覚のあることを指摘されて、アーチャーは眉を顰める。背中で、小さく笑う気配。
 言い返すべきことを、アーチャーが探す間も無く。
「っ」
 小さな声が宙に舞う。
 敷かれてあった、アルコール特有のにおいが微かに残る布団の上に、アーチャーは仰向けに押し倒された。
「アーチャー」
 過去の自分と似て非なる少年が、上にのしかかってきて、笑った。

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