真夏のひかり

02


 遠坂邸へと士郎を送り出した後、家事を済ませてから、アーチャーも仕事へ行く。
 マウント深山商店街の一画にあるこぢんまりとした古書店が、彼の職場である。商売柄、繁忙とは無縁ではあるが、適度に古びた、独特の落ち着いた雰囲気が気に入っていて、随分と長く続けている。
 この日は、見知った顔が客として現れた。
「おはよう、アーチャー」
 にこやかに笑うその姿には、稀代の魔女、などという呼称は相応しくないようにすら見える。むしろ、葛木メディア、と呼ばれる方がしっくり来る、キャスターだった。左手の薬指には、誇らしげに結婚指輪が嵌められている。それは先だって、ささやかながら結婚式を挙げたときに、宗一郎から贈られたものだ。式は、世話になっていた縁で、柳洞寺で行われた(キャスターは白無垢を着たらしい)。今では、その柳洞寺を出て小さな戸建てを購入し、キャスターは夫との二人の生活を心から満喫している。余談ながら、アサシンは依り代を柳洞寺の山門から、葛木家の小さな門柱に変更され、今も絶賛門番中である。
 元来がお姫様育ちで、料理は苦手というよりも、やったことがない彼女は、それでも「宗一郎様を喜ばせたいから」と、時々、料理本を買いに来る。新都の大手書店の方が、無論、本の種類は格段に多いのだが、料理上手のアーチャーからアドバイスを受けられる、というメリットがあるからだ。それに、古書の方が安く買える、というのも主婦の知恵だろう。
「……やあ、キャスター」
カウンターの中から、アーチャーは応えた。
「また、見させてもらうわね」
「ごゆっくり」
 料理本の並べてある辺りの棚を、キャスターは吟味する。目に留まった本を手にとっては、ぱらぱらとページをめくる。
「宗一郎様、このお料理お好きかしら……」
 と、真剣にとっかえひっかえ料理本とにらめっこするキャスターは、まさに幸せ匂い立つ新妻、だった。彼女が魔術師のサーヴァントとして陰謀を巡らせ、士郎達と戦いを繰り広げたことなど、過去よりも遠い昔のことのようだ。
 ふと思い立って、アーチャーは奥にある給湯室で、やかんを火に掛けた。
 ティーポットの中の茶葉を沸騰させた湯で蒸らし、濃いめに作った紅茶を氷を入れたグラスに注いで、アイスティーを淹れる。それを、アーチャーはカウンターの上に置いた。好みで入れるための、シュガーポットも添える。時折、気が向いたときに、アーチャーはこうして、店を訪れた客にお茶を振る舞うことがある。
「キャスター、良かったら、お茶はどうだね」
 声を掛けられたキャスターは、少し驚いたようにアーチャーを振り向いた。
「……あら、サービスなの?」
「サービスだ。外は暑いしな」
「まあ、随分、気の利いたサービスなのね。ありがとう、いただくわ」
 いつもは壁に寄せてある椅子をカウンターの脇に置き、キャスターに勧める。この辺りを自然に行うのが、アーチャーが、生まれついての執事とか、天然たらしとか言われる所以である。本を棚に戻し、礼を言って座ったキャスターは、グラスを手に取った。
「……いい匂い。グレープフルーツの香りね」
「ああ」
 グラスの中でストローを回すと、からり、と氷が音を立てる。暫し、穏やかな表情で冷たい紅茶の風味を楽しんでいたキャスターは、視線を上げた。
「……ねえ、アーチャー。あなた、今、幸せでしょ」
 唐突に、キャスターが言う。アーチャーは、不意を突かれて目を瞬かせた。やはり世間体というものがあるので、士郎とアーチャーの関係は、ごく一部の者が知るのみで、キャスターは知らない側に属する。それでも、キャスターの目には、アーチャーが幸福の雰囲気を纏っていると見えたのだ。
「何故、そう思うね?」
「分かるのよ」
 キャスターは、優雅に微笑んだ。
「空気が、違うもの」
「空気?」
「ええ、あなたの周りの空気」
 聖杯戦争時に比べれば、随分丸くなったと、よく言われるアーチャーだが、それは現界しているサーヴァント全員に、共通して言えることだろう、何せ戦争は終わっているのだから。現に、目の前のキャスターだってそうだ。アーチャーは訝しそうに眉を寄せる。
 しかし、キャスターはますます笑みを深くした。
「私が幸せだから、分かるわ」
 英雄イアソンの冒険を手助けさせんと、女神に植え付けられた偽りの恋心のために、運命に翻弄されたコルキスの王女は、英霊となって召喚された、故郷より遠く離れたこの極東の地で、自分自身の本当の望みを叶えたと、幸福に満ちた顔を見せる。
 優れたヘカテーの魔術の力を持っていた彼女は、アルゴナウタイの冒険を成功に導いたものの、その、敵対する者への容赦の無いやり口のために悪逆非道の魔女と誹られ、挙げ句の果てには妻として尽くしたイアソンにまで裏切られた。本当はただ、幸せになりたかっただけの少女は、夫への復讐を遂げた後、逃避行を重ねることになった。
 だからこそ、キャスターは今の幸福を尊ぶのだろう。寡黙ではあるが、あくまでも誠実な宗一郎との生活は、彼女にとって何よりも大切な幸せの形、そのものなのだ。
「人に優しく出来るのは、自分が幸せだからよ」
「……かも、しれんな」
 アーチャーは反発しない。自分が幸福であることを否定するほど、さすがに愚かではない。
 以前、凛が、自らの身を省みることのない士郎に対して、言ったことがある。
『誰かを幸せにしたいなら、自分も幸せじゃないと嘘でしょ?』
 幸せになる権利など無いと思っていた。あの冬木大火災の中で生き残った自分は、亡くなった大勢の人達の分まで、この命を使って何かをなさなければいけないと、それだけが自分が生きる意味だと、信じていた。正義の執行装置として殺戮を重ね続ける自分は、人の幸せを外から見る立場であって、そのただ中に身を置くことなど、考えもつかなかった。正義のためなら、誰もが嘆きや悲しみに泣くことがない世界のためなら、己という個は捨てたところで一切構わなかった。いや、むしろ、サバイバーズ・ギルトの故に、自分が幸福を感じることは、罪業であるとすら、無意識に思っていた。
 それでも、幸せになっても良いのだと、幸せになりなさいと、言ってくれた人がいて。士郎に愛されて士郎を愛して、共に人の世に暮らして。ああ、自分が本当に求めていた「幸せな世界」とは、きっと、こういうものだったのではないか。大切な人と一緒に、ほんの些細なことで笑ったり、愚痴ったり、怒ったり、喜んだりする、平凡だが、平穏な日常の繰り返し。人であった頃はあまりに身近にありすぎて、それが幸せなのだとは、気付かなかった。
 そう、自分が幸せを感じられないと、幸せという真の意味はきっと分からないのだ。幸せは、遠くにありて思うものではなく、身近に感じるものなのだと。
 深く強く優しく愛され、アーチャーは初めて、幸福を全身で享受することを知った。生前は、人として壊れていると言われたのに、死後、英霊となってから、人よりも人らしくなるなど、想像も出来なかった。
「生きているときより、幸せだなんて……」
 キャスターもまた、アーチャーと同じような感懐を、呟いた。
 以前は悪女を演じていたキャスターは、今はその必要も無く、フードを深く被って、素顔を覆い隠すこともない。その美貌には、今は明るい輝きだけがあり、愁いの色は入り込む余地など存在しなかった。
「……不思議だな、我々は既に死者なのにな」
「そうね……」
 英雄になどならなければ良かったと、後悔は何度もした。だが、この英雄になったからこその、この幸福の前には、何を後悔していたのか、忘れてしまいそうだ。
「ごちそうさま、お茶、美味しかったわ」
「それは良かった」
 空になったグラスを、キャスターは置いた。
「……それでね、アーチャー」
 ほんの少し前まで、いかにも美人若奥様然、としていたキャスターの口調が変わる。何というか、目もきらきらと輝いて、ほんのりと頬も紅潮させて、夢見る乙女のようだった。更には、両手を組んで「お願い」ポーズを作る。
「ねえ、あなたからもセイバーに頼んで欲しいのよー。私の作った服、着てちょうだいって!」
「……私に言ってどうする。本人に直接頼んでくれ」
 キャスターの急転直下なテンションの変化に、アーチャーはため息をついた。
 少女趣味というのか何なのか、キャスターはとにかく、可愛い少女に可愛い服を着せるのが大好きだった。わけても、金髪翠眼を持ち、小柄で可憐なセイバーの容姿は、彼女の好みにあまりにも該当しすぎているため、度々、セイバーにあれ着てこれ着てとキャスターは迫っている。ボトルシップ作りなど、手先の細かい作業を趣味に持つキャスターは、服作りも得意なのである。セイバーのサイズは、言わずもがな、聖杯戦争時にばっちり計測済みだ。
 が、当のセイバーは、元々、男のアーサー王として生きてきたため、キャスターの用意するフリルやレース満載の服を苦手としている。正に、宝具『全て遠き理想郷(アヴァロン)』を展開したが如き鉄壁で、セイバーは断固として着せ替え人形を拒否し続け、キャスターは玉砕を続けているというわけだが。
「何度も頼んでるけど、その度に断られるの……」
「なら仕方がないな。脈が無いと思って、諦めたまえ」
 すげないアーチャーの言葉に、むう、とキャスターは頬を膨らます。
「もう! あなた、セイバーのお兄さんなんでしょ!」
「建前上はな。だからといって、強制力があるわけがあるまい」
 アーチャーが衛宮邸に住み始めたときに、主に藤村大河に向けて使った名目が、セイバーの義兄、だった。似ていないのは血が繋がっていないからで、親同士の再婚で義理の兄妹になった、ということになっている。また、士郎とは、元々同一人物であるために当然似ている、という風貌を利用し、アーチャーは、士郎が衛宮姓になる前の親戚であり、火災の際に行方不明になった士郎を探すために冬木に来た、と対外的には説明していた。そのため、士郎がロンドンに留学する間、留守の衛宮邸をアーチャーが預かり、セイバーと二人で生活することは、疑問に思われなかった。
 セイバーは、アーチャーにとって初恋の少女であり、今もなお、士郎に対する想いとは別に、特別な存在である。なので、アーチャーは基本姿勢として、全面的にセイバーの味方側に立つ。こと、彼女の嫌がることなら尚更だ。そんなわけで、そもそもがキャスターの頼み事は、アーチャーには問題外なのだった。
「まったく……何もかも、というわけにはいかないのは仕方ないけど」
 結局、気を取り直してキャスターは、本を二冊ほどお買い上げで、帰って行った。
 その後ろ姿を見送り、アーチャーは胸中に呟いた。キャスターの言葉を反芻するように。
(幸せ、……か)
 誰にとっても幸せな世界など、存在しないことは、アーチャーは言われるまでもなく知っている。
 それでも、願わずにはいられない。
 一人でも多くの人が幸せだと感じる時間が、一分一秒でもいい、少しでも長続きしますように――と。


 夏至を過ぎれば、少しずつ日は短くなるが、夏の明るい日射しは、午後六時頃にはまだ天に留まっている。そのせいで、夕方とはいえど、暑気が厳しい。
 営業時間の終了した店を片付け、閉店のシャッターを下ろして帰宅しようとしたアーチャーの背後から、聞き覚えのある声がかけられる。
「アーチャー!」
「イリヤ」
 アーチャーと士郎、双方にとって、義理の妹であり姉である、イリヤスフィールが右手を振りながら歩み寄ってくるところだった。
 冬の妖精、雪の化身に譬えられることの多い少女だが、つばの大きな白い帽子をかぶり、足下は華奢なサンダル、淡いラベンダー色の生地の上にチュールレースを重ねたサンドレスを着た様は、夏のお嬢さんそのもの、といった風情である。
 小柄なイリヤスフィールは、精一杯に背伸びをするようにして、長身のアーチャーを見上げた。
「ね、これからおうちに遊びに行っていいでしょ? 勿論、お泊まりで」
「まあ、この時間なら泊まりになるだろうが……。だが、大丈夫かね?」
 アーチャーが大丈夫かというのは、勿論、イリヤスフィールつきの二人のメイド、わけても、厳しいセラの方である。それに対して、イリヤスフィールは、悪戯っぽく、ぺろりと舌を出して見せた。
「セラとリズなら大丈夫よ。お城の大掃除を言いつけてあるから」
「それはまた……」
 アーチャーは苦笑する。
 アインツベルン家の感覚で言えば、冬木郊外の森の中にひっそりと位置するアインツベルン城は、小規模な山城レベルらしい。が、一般庶民の感覚からすれば、迷いそうなほど広大だ。あの城を、いくら常人離れしたホムンクルスであるとはいえ、たった二人で徹底的に掃除するとなると、生半可な仕事ではあるまい。
「しかし、士郎は、今日、帰ってくるかどうか分からんぞ」
「あら、アーチャーがいればいいわ。あ、これ、お土産ね。夏の新作ケーキよ」
 言いながら、イリヤスフィールはお気に入りのケーキショップの箱をアーチャーに手渡した。
「では、これは食後のデザートにしようか」
「お茶はアールグレイにしてね!」
「分かった」
「じゃ、行きましょ、アーチャー」
「ああ」
 差し出された白い小さな手を、アーチャーは取って、エスコートするように軽く握る。
 実際は、士郎の一歳上の年齢なのだが、母親の胎内にいたときから魔術調整を繰り返し受けていた影響で、イリヤスフィールの身体は今もなお、十代前半の少女にしか見えない。聖杯の器として、画策によって生み出されたイリヤスフィールは、しかし、父親の切嗣と母親のアイリスフィールとの愛の結晶でもあった。人の血を引くホムンクルスは、その与えられた運命を乗り越えることが出来ると、信じたいのは愚かだろうか。長生きなんて出来ないと自分で言った、その、運命を。
「……イリヤ」
「なぁに?」
「君は……今、幸せか?」  答えを聞きたいような、聞きたくないような問いを、アーチャーは投げかけた。イリヤスフィールは、長い雪銀の髪を揺らして愛らしく小首を傾げる。
「幸せかどうかはよく分からないけど、今の生活は楽しいわ。それは確かよ」
 少し考えたかの間を置いて、イリヤスフィールが答えた。そして、微笑んだ。困った弟ね、とでも言いたげに。
「でも、どうしたの? そんなこと訊いてきて」
 ほんの少しだけ、アーチャーは自分の掌に力を込める。
 投影魔術の影響により、生来の髪の色が抜けて白くなったアーチャーは、サーヴァントという人外の存在であることも相俟って、奇しくも、ホムンクルスのイリヤスフィールとは、まるで本物の兄妹のように見える。その見かけ通りに、アーチャーはイリヤスフィールが、幸せであって欲しいと思う。
 大事な人には、幸せだと笑って欲しい。アーチャーが、正義の味方として、あるいは英霊エミヤのあり方として、見知らぬ誰かの、万人の幸福を願う気持ちには変わりはない。しかし、身近の人の幸せを思うのは、それよりも、もっと強い願いだった。
 ごく普通の、こんな感情も、士郎に愛されなければ、きっと知り得なかった。アーチャーにとって、一番大切な者は言うまでもなく士郎だが、しかし、大切な者が一人だけとは限らないと、アーチャーは欲をかくことを覚えた。
 固定化され、不変のはずの英霊が、よもや、こんな風に変わることがあるなどと。それも、愛されるが故の幸せ、なのか。
「いや……、何でも、ない」
 頭を小さく振り、行こう、とアーチャーはイリヤスフィールを促した。イリヤスフィールも、それ以上追求することはなく、うん、と頷いて、アーチャーの手を握り返した。
「あっれー、アーチャーさんにイリヤちゃんじゃない」
 衛宮邸に向かって、二人で手を繋いで歩き出したところ、藤村大河の明るい声に出くわした。ちょうど彼女もまた、衛宮邸に行く途中だったらしい。手に提げているビニール袋からは、カラフルな花火のパッケージが覗いている。イリヤスフィールとは違う意味で、こちらも相変わらずのようだ。何というか、抜群の安定感といった風である。
「ちょうど良かったわー。ね、今日は、皆で花火大会しよ? せっかく夏なんだし!」
 大河はにこにこと笑って言う。
「タイガって、ほーんと、子供っぽいわよねー」
 イリヤスフィールが、小さく肩をすくめた。
「なによぅ、イリヤちゃんだってするでしょ、花火」
「付き合ってあげても、いいけどね」
 あくまでもイリヤスフィールは、大河に対して自然な上から目線だった。どういうわけだか、これでこの二人は気が合っているらしい。
 どうでもいいが、自分を挟んで言い合うのは出来れば止めて欲しい、とアーチャーは少々、立ち位置に困らざるを得なかった。そんなポジションを維持したまま、アーチャーはイリヤスフィールと大河と共に、マウント深山商店街から、徒歩で帰宅する。
「ただいま、……ん?」
 玄関の引き戸を開くと、士郎の靴が揃えて置いてあるのを、アーチャーは無自覚に見て取った。
「おかえりなさい、アーチャー。シロウは帰っていますよ……おや」
 大体、いつも同じ時刻頃にアーチャーが帰ってくるから、心得たもので、士郎の在宅を伝えるためにセイバーが出迎えに出てきた。そして、アーチャーの連れに目を留める。
「やほー、セイバーちゃん!」
「お邪魔するわね、セイバー」  それぞれの挨拶らしきものを受け、セイバーは軽く会釈した。
「いらっしゃい、大河にイリヤスフィール」
 靴を脱ぎながらアーチャーは、セイバーに言った。少しだけ、その声に喜びの色が混じっている。
「――早かったのだな、士郎は」
「はい、今日は。一時間ほど前に帰ってきました」
「そう、か……。これはイリヤからだ。冷蔵庫に入れておいてくれ」
「はい、分かりました」
 頷いたセイバーが、ケーキの箱を持って行った台所では、ちょうど士郎が、夕食の支度をしているところだった。セイバーにお客様ですよ、と言われて、士郎は振り向く。
「藤ねえ、イリヤ」
 幼い頃からの姉代わりの(大河)と、同じ衛宮切嗣を父とする、妹であり姉である(イリヤスフィール)。その顔ぶれを見て、士郎の顔がほころんだ。
「遊びに来たよ、シロウ!」
「ああ、久しぶりだな、イリヤ」
「うん、すっごい久しぶり。シロウも、リンにいつまでもこき使われてばっかりじゃ、駄目よ」
「はは、それを言われると痛いな」
 魔術師としては、まだまだ凛の許から独り立ちできるほど一人前とは言えないと、自覚のある士郎は苦笑して頬をかいた。
 そこへ、大河が勢い込んで、花火の束を士郎に突きつけるようにして身を乗り出してきた。何となく、虎の耳と尻尾が生えているように見えた、気がする。
「士郎、今日は花火するわよ、花火!」
「……それ、危険な花火は混じってないだろうな、藤ねえ」
「だーいじょーぶ!」
 あまり信憑性の無い大河のお墨付きに、やや疑いの目を受ける士郎だった。まあ、もしも危ないことになるようなら、セイバー辺りが容赦なく水をぶっかけるだろうが。
「……しかし、これだけ大勢になるの、久しぶりだな」
 以前は、衛宮ハーレムなどと言われ、女性の下宿人が大勢いた衛宮邸だが、現在の住人は士郎、セイバー、アーチャーの三人のみで、食卓も随分こぢんまりとしている。しかも、一番、家主が不在がちだったりするので、余計にだ。いくらセイバーが、人三倍食べるといえど。
 夕食に自分の腕を揮うのが久しぶりの士郎は、人数が増えたのもあって、よし、今日は張り切ってご馳走を作るぞ、と気合いを入れ直した。
「ん? 士郎、何でこんなにいっぱいビールがあるの?」
 士郎が忙しく動き回る台所、その片隅に寄せてあった箱の中身に、大河が目敏く気付いた。
「ああ、それ。セイバーが、福引きで当てたんだ」
「そっかー、セイバーちゃん、相変わらず抜群のくじ運ね。やるなあ」
 と、早速ビールの箱をごそごそと開け始める大河に、士郎が釘を刺した。
「花火するなら、ビールは後な。まだ冷やしてないし、そもそも、酔っ払ってちゃ危ないだろ」
「もー、士郎ってばお堅いー」
 教師にあるまじき発言である。
「はいはい、邪魔しない邪魔しない」
 駄々っ子のようにぶんぶんを両手を振る大河を、士郎はいなして、台所から速やかに退却させる。
 入れ替わりに台所に向かって、士郎に、手伝おう、と言いかけたアーチャーは、足を止めた。
「ねえ、アーチャー」
 イリヤスフィールが、くいくいとアーチャーの袖口を引っ張ったせいだ。
「……どうかしたかね」
「今夜は、一緒に寝よ? いいでしょ?」
 無邪気に聞こえる発言だが、声音にはからかいの色がある。アーチャーは、眉間に皺を寄せた。困惑のためだ。
「淑女が、男と寝具を共にするのは、いささか、はしたなくないかね」
「何言ってるのよ。わたし達、姉弟じゃない」
 アーチャーに屈むよう促すように、更にイリヤスフィールは強く服地を引く。アーチャーがそれに従うと、明らかに小悪魔の笑みを含んだ声で、イリヤスフィールは小声で言った。
「……それとも、一緒に寝るのは、シロウじゃなきゃ嫌なのかしら?」
 耳元で、そんなとんでもないことを言われたアーチャーは、一瞬で褐色の頬を赤くした。
「イリヤッ!!」
「冗談だってば。ちゃんと、タイガと同じ部屋で寝るわよ。その代わり、おやすみのキスだけは、ちゃんとしてね」
 くすくすとイリヤスフィールは、笑い声を上げる。
「それとも、キスもシロウだけ? アーチャーったら、本当にシロウのこと大好きなんだから。ちょっと妬けちゃうわ」
「そんなことは言っていないだろう、……からかわないでくれ、姉さん」
 アーチャーはがくりと肩を落とす。そんなアーチャーの様子に、イリヤスフィールは、ますます笑みを深くした。猫が嫌いだという割には、イリヤスフィールの笑いは、何処となく猫科を連想させる。
「弟は、姉には勝てないの。そういう決まりなの」
 その理論は、アーチャーに関しては全く正しかった。
 結局、アーチャーはその後もイリヤスフィールや大河の話し相手を務めることになり、士郎の手伝いは出来なかった。
「おーい、出来たぞ」
 士郎の声が掛けられる。それを号令にして、賑やかに食卓を囲む。その後は、イリヤスフィールの土産のケーキをデザートにと供され、庭で大河が持ってきた花火を楽しむ。
 そんな、特にこれといった事件もない、平穏で、愛しい平凡な毎日。