真夏のひかり

01


 夜が完全に明けきらぬ前から、外では、鳥の囀りと共に、勤勉な蝉が恋の歌を奏で始めている。
 今日も一日暑くなりそうだと、目を覚ましたアーチャーは布団の上に横たわったまま、ぼんやり思った。しかし、今の時間はまだ、開けられた窓から吹き付ける風にも、むっとする熱気はこもっておらず、適度な涼気を含んでいて快い。
 熱帯夜などよりもよほど熱く、激しいまでに一晩中、愛し愛されて、身も心もすっかり蕩けきった翌朝。満ち足りた心持ちが、指の先まで行き渡っている。
 自分の剥き出しの肩を抱いたまま隣でまだ眠っている、赤銅色の髪の恋人に、アーチャーは鋼色の目を向けた。薄暗がりの中でも、鷹の目には関係なく、士郎の顔が鮮明に映る。
 顔は、その人の履歴書だという。
 確かにそうだと、傍らの寝顔に納得する。
 目鼻立ちなどの顔の基本的な作りそのものは、元を糺せば同一人物である士郎とアーチャーは、実によく似ている。士郎が少年であったときは一見して似ているとは思えなかったが、二十代の青年に成長した今では、やはり似てきた。
 だが、あくまでも、せいぜいが兄弟程度に「似ている」レベルであり、アーチャーと士郎が、全く「同じ」顔であるとは、アーチャーが投影魔術の行使の影響で生まれ持った色彩が変わってしまったことを除いても、まず誰もが否定するだろう。鏡を見たところで、当人同士も相手と自分を見間違えたりはしない。
 それほどまでに、二人は、ある意味、大いに違っていた。
 人であることを選んだ士郎。英霊となることを選んだアーチャー。
 DNAから全く同じであるのに、その歩みの違いが、本来は「一人」である衛宮(エミヤ)士郎(シロウ)を、別の「二人」にした。
 妙に可笑しくなって、アーチャーはこっそりと笑いを漏らした。
 衛宮士郎と、英霊エミヤ。ただでさえ、同一の存在が同時に存在することが、本来、あり得ない事態であるというのに、それどころか、互いに愛し合っているなどと、あり得ないにもほどがある。
 だが、あり得ないとどれだけ言ったところで、アーチャーは実際にここにいて、士郎を心から大切に想い、士郎はアーチャーに惜しみない愛情を注いでくる。その事実の前には、どんな否定も全く意味が無い。
 幸せだと、アーチャーは思う。その感情だけで胸がいっぱいになって息が詰まりそうなほど、本当に。
 自分殺しを目的として聖杯戦争に召喚されたのに、答えを得たのみならず、こんな幸福までをも手にするなんて。―かつての自分自身との恋愛など、背徳どころではなく、決して誇れるものでもない。しかし、ナルシシズムの極みだろうが何だろうが、それでも、この恋を手放すことなど、アーチャーには考えられない。
 かつては自身の幸福の追求など、想像することすら無かったというのに。滅私奉公の正義の味方。多くの人を幸せにしたい。ただ、そのためだけに生きていた。
 報われることなどなかった、生前の自分の生涯を不幸だった、などとは思わない。あれはあれで、悪くない人生だったと今では思える。何度同じ選択を迫られても、きっと自分は同じ結末を迎えるだろう。絶望よりも深い淵の底、摩耗の末に、その答えは最初から自分の中にあったと、気付かせてくれたのは士郎だった。
 そして。
 何よりも、世界との取引を選んで英霊になる道を選んでいなかったら、今の幸福は存在し得ないのだ。
 密着した皮膚は軽く汗ばんでいるものの、不快さは感じなかった。士郎の手の上に、アーチャーはそっと自分の手を重ねた。かつては一回りは小さかった士郎の手は、今やアーチャーとほとんど変わらない。掌から伝わってくる、熱さとは別種の温もりが、胸の裡に浸透していくようだった。
 どうして、こんなに愛しいのだろう。愛しくて、ただ愛しくて、たまらない。
 この感情に辿り着けるまで、壮絶な回り道と足踏みと空回りを、一人で随分繰り返してきた。その様は、傍から見れば実に滑稽だっただろうと、自分でも笑える。本当に、自分が士郎を好きだと、何故気付かなかったのか。離れている間も、士郎のことを考えてばかりいたのに。
 そんな遠回りをしてきた分、だからこそ、きっと今、余計に士郎が愛しい。
 偽りの英雄の自分、贋物でしかなかった理想。それでも、その道の果てにあった、この多大な、身に余るほどの幸福は紛れもない本物だ。
「愛してる」、士郎が口癖のように口にするこの言葉が、こんなに美しいものだったなんて、知らなかった。世界は様々な美しさに溢れているけれど、これ以上に美しいものがこの世にあるだろうかと、アーチャーは士郎に囁かれる度に、その意味をかみしめる。
 抑止の守護者として行使され続け、ひたすらに殺戮を重ねる中、何もかもが色褪せて見えていた目に、世界は本当は美しいのだと、取り戻された光。そして、それ以上に士郎のくれる言葉は、美しく尊い。
 美しいものを素直に美しいと感じられることは、とても素晴らしいことなのだと、今更ながらに思い知る。だからきっと、これからも、世界を守っていける。
 こんなに幸せで良いのだろうか、そんな不安を抱かないこともない。だが、不安の翳りも、こうやって士郎に抱きしめられて、愛情を告げられるだけで、あっさりと霧散してしまう。
 それこそ、士郎自身が、強く烈しく、闇を消し去る明るい夏の光そのものであるかのように。
 ふと気付くと、徐々に差し込んでくる朝の陽光が、窓越しに白々と部屋の中を照らし始めている。士郎の顔の輪郭も、よりはっきりとしてきた。
 自分と似ていて、それでいて違う顔。
 士郎、と声に出さずに口の中で名前を呼ぶ。
 自分の名前もエミヤシロウのはずだが、今ではその名で呼ばれるよりも、単なるサーヴァントしてのクラス名に過ぎない「アーチャー」という呼び名の方が、生まれ持った名の如く、自然に感じられる。士郎の声で、アーチャーと呼ばれるのが、とても心地良い。ああ、士郎とオレとはもはや完全に別の存在なのだなという、安堵と共に。
 士郎は、自分と同じ英霊などにはならない。あくまでも人として、理想の道を追求するだろう。そして、自分は英雄となることを選択した者として、士郎がもし迷ったり惑ったりした時に、傍にいて支えていければいい。
 最初は、自分とは異なる未来を迎えるはずの士郎の行く末を、少し見てみたくなって、衛宮邸に住み始めたのが、今ではすっかり、意味合いが変わってしまった。
 士郎の肩辺りに、アーチャーは頭を押し当てた。こんな時でもないとしない、甘えた仕草だった。
 まだ、この期に及んでもアーチャーは、言葉にして直接に、士郎に「好きだ」とも「愛している」とも告げたことがない。それは、素直でないアーチャーの、ほんのささやかな強情、だ。
 それさえも、士郎からすれば、アーチャーの魅力、になったりする。
 一つ息を吐き、そろそろ起きるかと、アーチャーが身じろぎしたら、士郎がその琥珀の目を開いた。
「おはよう、アーチャー」
 挨拶の言葉と共に、士郎は軽いキスをアーチャーの唇に落とす。拒むことなく受け入れて、アーチャーは短く答えた。
「……ああ」
「どうした、俺の顔、じっと見てて。惚れ直した?」
 士郎が手を伸ばし、アーチャーの頬を撫でる。あまりにその表情が優しいから、アーチャーは、何となく気恥ずかしくなり、思わず目を伏せてしまった。それでも、士郎の手を振りほどいたりはしなかった。
「……そんなわけが、あるか。どうもしない」
 照れ隠しにしか見えない反応をするアーチャーに、士郎は小さな笑い声を零した。
「これ以上、惚れようがないって?」
「ば、馬鹿者!」
 ある意味、図星を突かれたアーチャーが赤面する。
 素直な感情の発露をアーチャーがするのは、士郎の前だけだ。『冷徹な皮肉屋の弓兵』の面影はそこにはなく、士郎の言うところの「アーチャーって、ほんとに可愛いよな」状態である。
「いやあ、お前が俺のことずっと見てるから、いつ眼を開けたもんかって、タイミングを考えてたんだよ」
「む……」
 目が覚めてから、士郎をずっと見ていたことは事実であるから、アーチャーは反論できない。かろうじて、
「……悪かったな」
 そう言えば、
「悪くなんかないさ。お前も、俺のこと愛してくれてるんだもんな」
 と、余裕の態度で返された。さすがに士郎へ気持ちを自覚して以降は、アーチャーも否定出来ない。
 まったくもって、士郎がロンドンから帰ってきてからというものの、アーチャーは目下の所、連戦連敗中である。もっとも、それをアーチャーは、仕方が無いと受け入れている。
 幸福の意味を知らなかった自分、そして士郎。そんな自分が、士郎に幸福を与えられるのならば、出来る限りのことを何でもしてやりたいと、それが、ごく自然なアーチャーの思考だった。
 ちなみに、士郎がアーチャーには敵わない、と言っていることは当の本人は知らない。これだからこの馬鹿ップルは、と、凛に言われる所以である。もっとも、アーチャーに言わせれば、「割れ鍋に綴じ蓋だろうな」ということになる。
 士郎もアーチャーも、互いに自分のことより相手のことを優先、なのだから、言い得て妙と言えなくもない。
 ほとんど睦言の延長のような、他愛も無いやり取りの後、もう一度、今度は士郎はアーチャーの額にキスをした。
「……起きるか」
 言われて、アーチャーは頷く。
 二人の全裸の身体を覆っていた、薄手のタオルケットを持ち上げ、敷布団からほぼ同時に起き上がる。
 二十センチもあった身長差は七センチ差にまで縮まり、今や士郎の体格は、アーチャーに負けず劣らずの雄偉さを持つまでに成長した。
 ただし、アーチャーの鍛え上げられた鋼の肉体は、閨においては凄まじいまでの色香が溢れるのだが、それは士郎だけが知っている秘密である。その身体の上に、服を纏って文明人の姿を取り戻す。
 夏なので、着る服は最小限だ。本来は霊体であるところのアーチャーには、暑さ寒さは身体に影響を及ぼしはしないのものの、いわゆるTPOというものだ。額に落ちかかっていた白い前髪を、かき上げて撫でつける。
 身繕いを済ませたアーチャーは、同じく服を身に着けて、洗濯するために布団からシーツを剥いでいる士郎に、訊いた。
「今日は、遅くなるのか」
「どうだろう、分からないな。帰れるようなら、早めに連絡する。もし連絡が無かったら、帰れないと思ってくれ」
「そうか」
 現在の衛宮士郎は、遠坂凛の助手である。生前、魔術師というよりも、魔術使いであったアーチャーには、魔術師の助手というものがどういう職業で、どんな仕事内容を持つのかは、実はあまりよく分からない。まあ、凛の人柄および性格をよく知るだけに、士郎がこき使われているだろうというのは、想像に難くない。
 それにしても、これもまた、新婚夫婦が交わす朝の会話じみていることを、やはり当人は気付いていない。アーチャーとしては、夕食をどうするのかを気にしただけで他意は無い、らしい。
 布団を干し、洗濯物を洗濯機に入れ、顔を洗う。ここまでは二人同じだが、士郎は剃刀を手に取って、ひげを剃り始める。不変の英霊へと昇華したアーチャーは、それこそ身体の手入れなど不要だが、人間である士郎はそうはいかない。体質的にあまり濃くならないとはいえ、やはり毎朝きちんと剃らないとみっともないことになる。人と寸分変わらぬ姿を持つサーヴァントだが、こういう細かなところで、生きている人間とは差異が出てくる。便利なのではなく、死人故に変わりようがないのだ。
 それにしても、士郎がひげを剃る姿は、いやに男くさくて、つい、アーチャーは見入ってしまった。
(……何を考えているのだ、オレは)
 昨夜、士郎に抱かれたせいだと、無理矢理自分を納得させることにするアーチャーだった。
 鏡越しに気付かれる前に退散しようと、先に行くぞ、と士郎に声を掛けたアーチャーは朝食の準備をするべく、台所へと向かった。
 冷蔵庫を開け、食材を確認してからメニューを頭の中で組み立て、必要なものを取り出し、手早く料理を始める。
「おはようございます」
 そうしているうちに、衛宮邸のもう一人の住人が、居間に姿を見せた。
「ああ、おはよう、セイバー」
 手を止めて振り向き、アーチャーもセイバーに朝の挨拶を返す。
「今日も暑くなりそうですね」
「そうだな。まあ、洗濯物がよく乾いていいが」
 いかにも主夫じみたアーチャーの台詞に、セイバーがアーチャーらしい、とくすくす笑う。洗濯機を回してきた士郎も、居間に合流した。
「おはよう、セイバー」
「おはようございます、シロウ」
 夏の一日が、今日も始まる。