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Act 1 帰国と再会 後編


 夜も更け、ようやく宴会場はお開きとなった。女性達は衛宮邸に泊まることになり、ランサーとギルガメッシュはそれぞれの拠点へ帰っていった。女性陣は場所を移動して、どうやら夜通しのお喋りに興じるらしい。
 桜やライダー、何とギルガメッシュも後片付けを手伝ってくれたおかげで、思ったよりも早く綺麗になった居間で、アーチャーはいつもの定位置に腰を落ち着けて、ふっと息を吐いた。
「アーチャー」
 タイミングを見計らったように、風呂に行っていた筈の士郎が、呼ぶ声と共に戻ってくる。居間の入り口に背を向けたアーチャーは、振り向かない。そのくせ、立ち上がろうとする気配は無かった。
 士郎は、小さく笑った。
「やっと、二人きりになれたな」
「……別に、お前を待っていたわけではない」
 ようやく士郎に向かって開かれた口は、相も変わらずの素直さとは真逆の言葉を落としたが、それすらもただ、士郎にとっては懐かしさと愛しさを募らせるだけだった。
「なあ、一緒に飲もうぜ。お前、さっき、ほとんど飲んでないだろ。これ、とっときの本場のスコッチ・ウイスキーだぞ」
 アーチャーの前に回った士郎は、こつりと座卓の上に本人の琥珀色の瞳と良く似た色の液体が満たされた瓶を置く。アーチャーが返事をする前に、氷を入れたグラスを二つ、さっさと用意した。
 つい先ほどまでの喧騒が嘘のように静まった居間。六年前によく自分が座っていた場所、アーチャーの斜め隣の位置に胡坐をかいた士郎は、酒を注いだグラスを置く。
 ほとんど同じ高さになった目を、士郎が合わせてくる。その目があまりに――優しかったから、アーチャーは顔を逸らそうとして、止めた。
 士郎の容貌は、確かにアーチャーに似てきた。だが、二人が全く同じにはならないことは、簡単に窺い知れる。
 アーチャーが鋭利で厳格な雰囲気を纏っているのに対して、士郎の纏う雰囲気はもっと大らかで穏やかだからだ。――紳士の国で、魔術修行だけでは飽き足らず、妙な余裕、なんてものまで学習してきたらしい。
「アーチャー」  もう一度、士郎が呼んだ。大切なものを、そっと両手でくるむ響きだった。  アーチャーの記憶にあったよりも、随分と大人びた笑顔。一般的な建前としては、ロンドンで大学院の修士課程まで修了してきたことになっている士郎は、二十四歳になっているのだから、当然といえば当然なのだが。
 そう、当然だ。本来は、既に時が止まった死者である自分が変わらないのも、士郎が変わっていくのも、何もかもが自然で当たり前のこと。士郎はこの世に生きている人間なのだ。生きている限り、人は変わり続けていく。それが、摂理だ。分かっている。分かっていた、筈だった。それなのに。
 この釈然としない気持ちは何だろう。
 オレは、六年前の士郎に自分自身の過去を重ねて、取り戻せないものを懐かしんでいただけなのか? それが、士郎が少年ではなくなったから、違和感を覚えてしょうがないのか?
「……参ったな」
 唐突に、士郎が言った。少し照れくさそうに。
 アーチャーは怪訝そうに眼を細める。
「俺、結構、嫉妬しないタイプだと自分で思ってたんだけど」
 グラスを手にした士郎は、一口、中身の液体を嚥下した。氷がからり、と揺れる。
「お前、少し変わったよな。随分、周りのことを柔らかく受け入れてる。お前が、俺のいないところでそんな風に変わっているっていうのが、何だか妬けるし、ちょっとだけ寂しい」
 眩しいものを見つめる眼差しをひたりと当てられたアーチャーは、少し眉を顰める何時もの表情をしようとして、微妙に失敗した。変に拗ねたみたいな顔になる。
「……仮にオレが変わったとしても、そんなもの、お前の変化に比べたら些細なものだろう」
「俺のは変化じゃなくて成長っていうんだよ。で、お前は? 寂しかった? ちなみに、俺はかなり寂しかった」
 ……寂しかった?
 士郎に覗き込まれ、アーチャーはようやく先ほどから胸中に波立っていた、奇妙な、訳の分からない感情の名を理解した。
 ――そうか、オレは寂しさを感じていたのか。一緒にいた時間よりも、離れていた時間の方が長すぎて、知らない間に士郎が成長していた、というこの現状に。それは、今まで知らなかった感情だから、自分の中でどう対処したらいいのか分からなくて、意味不明の苛立ちを感じていただけなのか。
 腑には落ちたが、それを正直に認めるのも何となく癪なので、アーチャーは酒を一息で干してから、ぶっきらぼうに言った。
「たわけ」
「その『たわけ』を、電話じゃなくてライブで聞くのも久しぶりだなあ。すごい、帰ってきた、って気がする」
 空になったアーチャーのグラスに、士郎は新しいウイスキーを注ぎ直す。以前から、こうして二人で酒を酌み交わしていたかのように、ごく自然に。実際は、士郎は六年前は未成年だったため、初めてなのだが。
「六年、色々あった」
 そう言って、士郎は、六年間の出来事を、報告のように話し始める。
 凛と、似た者同志であるが故にライバルと目された、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト嬢のキャットファイトが、竜虎相討つ一大決戦の如く、そりゃもう凄まじかったこと。執事のバイトが楽しかったこと。第四次聖杯戦争のマスターの生き残りである、ロード=エルメロイ二世から知遇を得られたこと。送られてくる米やら味噌やら醤油やらが、大変有難かったこと。借家で育てていたプランターが、実は毒草だらけだっと知って仰天したこと。助手扱いだからって、凛の人使いの荒さは予想以上にとんでもなかったこと―。ちなみに、凛には、冬のテムズ河に突き落とされなかったらしい。
 アーチャーは、士郎の話をただ黙って聞いていた。
 そして、感じ入る。衛宮士郎が、完全に自分とは別の存在になったと。空の彼方ばかり見ていた自分とは違い、生まれ持った色をこれからも変えることなく、士郎は地に足をつけて、自分の人生を歩いていけるだろう。
 外見が、どれだけ似てきても。いや、それすらも、士郎の成長の証だった。
 変わっていくのだ、士郎は。これからも。それこそ、アーチャーの知らない男へ、と。それは喜ぶべきのことの筈が、ひどく切なく感じられる。
 そんなアーチャーの内心を見透かしたかのように、士郎は過去の追想話を終えて、にこりと微笑んだ。
「けど、皆が言うほど、俺は変わってないと思うぞ」
 所在なげに、座卓の上に置かれていたアーチャーの手を士郎は持ち上げ、恭しく褐色のその甲に接吻した。
「こうして、お前のこと、今も昔も好きなままの衛宮士郎だし?」
「ばっ……」
 馬鹿が、と手を引いてアーチャーは言いかけたが、語尾がちぎれる。
 力強くなった士郎の腕に、きつく抱きすくめられて。
「会いたかった……」
 囁きを、吐息と共に耳に吹き込まれる。それに、びく、とアーチャーの肩が跳ねた。宥めるようにして、士郎が背を撫でてくる。
 そして、ゆっくりと唇を重ねられた。
「っ……、ん……」
 穏やかな口づけは、次第に激情を増して、アーチャーを貪り始める。六年ぶりの舌と唇を、丹念に味わう風に。
 深く唇を合わせ、甘く舌を吸い、隈なく口蓋を愛撫して、唾液を啜り上げる。士郎に抱え込まれるようにして抱きかかえられたまま、呼吸の続く限りの口づけを与えられたアーチャーは、息苦しさよりも、何か、身の裡に生じた奇妙に切ない感覚に飲み込まれてしまいそうな気がしたから、自分を抱く男の背に腕を回し、縋る。
 浅い息をつきながら、濡れたアーチャーの唇を舐めて、士郎は顔を離した。
「――お前に、会いたかった。会いたかったよ、アーチャー」
「し、ろう……」
 もう一度、アーチャーは強く抱き締められる。絶対に離さない、と言わんばかりに、腕の中にアーチャーを閉じ込めるような、情熱的な抱擁。自分を見る目を見ていられなくて、士郎の肩の上にアーチャーは顔を伏せた。
 薄い、細い、と思っていた肩だったのに、随分と見違えるほど広くなった。
 士郎は、アーチャーの白い髪を撫でて、静かに訊いてきた。
「覚えてるか? 帰ってきたら、お前に言いたいことがあるって、俺が六年前に言ったの」
「……ああ」
 吐息に似た声と共に、アーチャーは頷く。
「今、言うよ」
 士郎は、剣光じみた色の瞳を持つ褐色の相貌を両手で挟み込んで、自分の真正面に向けた。鋼色は、士郎の顔だけを映していた。
 そして、恐ろしいほど厳粛に、士郎は告げる。一片の曇りも濁りもなく、ただ真っ直ぐな想いを。
「愛してる」
 アーチャーが目を見開いた。そうすると、アーチャーの表情はとても幼く見える。
「お前、は……」
「アーチャー、愛してる」
 ――士郎は今まで散々、アーチャーに好きだとは言ってきたが、決して、愛している、とだけは言わなかった。言えなかったのだ、六年前は、まだ。未熟すぎて、子供すぎて。
 けれど、六年かけて、士郎は、やっと胸を張って言えるようになった。
 美しい、誓いの言葉を。たった一人にだけ、捧げるための。
「……馬鹿士郎……!」
 それを受けて、頬をわななかせ、今にも泣きそうに顔を歪めたアーチャーは、ぐっと眉間に力を込めて士郎を睨みつけた。
「たかが泡沫(うたかた)の夢相手に、将来を誓うつもりか、この、たわけが……! 所詮は死人のオレには、過去しか無いんだぞ。この先の未来がある、お前とは違う。お前には、まっとうに幸福になれる権利があるのに、自分からわざわざそれを捨てるのか」
 変わった外観に反して、士郎の気持ちに変化が無いことが分かっていても、まさかそこまで昇華されているとは、と愕然とする。
「馬鹿はお前だよ、アーチャー」
 士郎は、そんなアーチャーの反応を静かに受け止めた。
「俺の気持ちなんて、最初にお前を抱いた時から、もう決まってた。今更だ。それなのにお前はそうやって、自分を磨り減らしても俺のことばっかり気遣うけど、お前の気持ちはどうなんだ?」
「何?」
「お前自身は、俺のことをどう思ってるんだ?」
 士郎の問いかけは、アーチャーの胸の中を抉り取る。他ならぬアーチャー自身が、それはかねてより疑問に思っていたことだったからだ。
 広義的には、きっと「好き」なのだろうとは認める。そうでなければ、男の自分が女役として男に抱かれる筈がないし、六年前の士郎の願い――待っていて欲しい、と言った――を律儀に守ったりしないだろう。
 けれど、この感情はきっと、士郎が自分に向けてくる、情熱的な感情とは違うものだろうとも思うのだ。恋や愛というものではなく。だが、その感情の色が何なのかは、不明瞭すぎてはっきりとしない。元々、アーチャーは生前から自己には無頓着だった上、世界にただの力として行使される英霊となってからは尚更、己の内心と向き合うことなど必要ではなかった。
 ……よく分からない。息苦しい。
 こうやって、凍りついていたと思っていたアーチャーの心をこんなにも掻き乱してくる存在は、この世でたった一人、士郎だけだ。そういう意味では、紛れもなく士郎は、アーチャーにとって特別な存在だった。
 過去の自分であって、過去の自分でない男、衛宮士郎。同じコインの裏と表、表裏一体であり、であるからこその二律背反アンビバレンツ
 アーチャーは惑う。まるで、思考の無限迷路に放り込まれたように。
「なあ、お前は俺の幸せを願ってくれるけれど」
 士郎は、ゆっくりと言った。
「お前が幸せでなけりゃ、俺も幸せじゃないんだよ、アーチャー――いや、エミヤシロウ」
「オレは……」
 求められて、その腕に抱かれて、幸福だと感じたのは、確かに嘘ではない。
 だが、アーチャーの――英霊エミヤの本来の居場所はここではなく、空に歯車の軋む、赤い剣の丘だ。どんなに願っても、死者が生者と一緒に生きていくことなど、不可能なのに。大切だと思うからこそ手放したい、という気持ちが、士郎には分からないのだろうか。
 普通に伴侶を得て結婚して、普通に子供を生み育て、その子が巣立ってまた新しい家庭を築く、普遍的な人類の営み。正義の味方という生き方だけを追い求めたエミヤシロウが、得ることすら考えなかった、当たり前だからこその尊い生き方。この衛宮士郎には、理想と現実を両立させることが、きっと出来る。
 いずれ士郎は、この激しい熱情も若気の至りだったと、懐かしく思い出せるだろう。それで充分なのに。
「……お前の枷に、なりたくない」
「枷なんかであるもんか。自分の心を捻じ曲げて、一見、幸せに見えるものを手に入れたところで、そんなのは贋物だろ。いくら俺達が投影者だからってさ、それに価値があるのか?」
 身を離そうとするアーチャーを、士郎は一層に力強く抱きとめる。
「愛して、いるんだ、お前を。お前、だけを。アーチャー」
「……士郎……」
 力ずくで士郎をもぎ離そうとすれば、出来た。しかし、アーチャーには何故だか出来なかった。
 六年前と同じだ、とアーチャーは思い起こす。
 あの時から、士郎はずっと信念として抱き続けていたのか、この言葉を。こんな、本物の、想いを。
 ならば、帰ってくるのを待つと、頷かなければ良かったのか。士郎の行く先を、少し見てみたいと思ったのも嘘では無いけれど。
 現実と過去の時間が、音もなく交錯する。