「……何で?」
と言ってから、凛は気付いた。
「貴方、10年前の聖杯戦争にも召喚されたのね」
「はい」
そう応えるセイバーの顔が少し悲しげに見えたと思ったのは、凛の気のせいだろうか。
気のせいではなかった。セイバーが発した声は、それまでの毅然とした彼女の声音とは違い、沈んでいた。そこに沈殿していた感情が何であるかを、読み取るには凛はまだ少し若すぎた。
嫌悪とか、憤怒とか、失望とか――セイバーがその人に抱く感情とは、簡単には表現できなかった。あまりにも複雑すぎて、セイバー自身ですらも、それをどう表現すべきものなのか、よく分からないものだったから。
彼を憎んでいるのか、と問われると、多分そうだと頷くだろう。だが、真に責めるべきは彼ではなく、自分自身だという事実の方が、セイバーには重い。
だから、あくまでも平坦に、セイバーは「今」のこの時間から10年前の事実を、淡々と凛に告げた。全ては、既に終わった「過去」だ。
「衛宮切嗣という名の魔術師が、私のマスターでした。彼に、やはりセイバーとして、私は召喚されたのです」
「衛宮……?」
セイバーの言葉に、凛は眉を寄せる。
まさか、セイバーの口から聞くとは思わなかった人名に、表情がみるみるうちに渋くなるのを自覚しながらも止められなかった。
セイバーは、膝の上に置いた両拳を密かに握り締める。
ああ、衛宮切嗣。その名をとば口にして、怒涛のようにかつての戦争の顛末がセイバーの記憶の中から蘇る。
思い出す。気高い優れた騎士でありながら、セイバーのマスターによる唾棄すべき策謀の前に、自ら命を断たざるを得なかったランサー――ディルムッド・オディナの、最期の叫びを、呪詛を。自分も、彼と同じ思いを味わわされた。ディルムッドと同じく、他でもない衛宮切嗣に。
切嗣――何故、貴方は私を裏切ったのか。いや、愛し愛されたアイリスフィールを……。
「切嗣を、知っているのですか、凛」
「いいえ。衛宮切嗣って人は知らない」
「……そうですか」
間を置かずに返ってきた明確な否定に、セイバーが何処か、安堵の息を含んで、表情を和らげる。
「けど、衛宮の姓を持っているヤツは知ってるわ」
2年C組、衛宮士郎。昨日の朝も、学校の廊下で出くわした同級生の顔を、凛は思い浮かべる。
スパナとかペンチとかの工具が変に似合う赤銅色の髪を持った少年は、頼まれ事を決して断らないことから、一部では「何でも便利屋」などと囁かれている。人が好過ぎるというのか何なのか、本人は、そう呼ばれることなど全く気にしていないようだが。
「同級生にいるのよ、衛宮士郎っていう男子が。衛宮なんて姓、そこらにぽんぽんあるもんじゃないから、きっとその衛宮切嗣の血縁とかなんだろうけど……。アイツには魔力なんかこれっぽちも感じられなかったから、まさか魔術師の関係者だとは思わなかった……。それにしても……わたしの知らない魔術師が、この冬木に堂々と住み着いてたなんて」
遠坂家は、代々、この冬木の地の
先代の遠坂当主である父の時臣の死去に伴い、遠坂の家督の全てを受け継いだ凛が、当然、当代の遠坂の管理者だ。その彼女が、衛宮の名は知ってはいても、魔術師であるということは知らなかった。
つまり、衛宮切嗣という男は、協会に所属しないフリーランスの魔術師として10年前の聖杯戦争に参加し、戦争後もそのまま冬木市に腰を落ち着けたということになる。それはどういうことなのか。
第四次聖杯戦争の最終勝者。
それこそが、最優のサーヴァントたるセイバーを従えた、衛宮切嗣ではないのか。
「切嗣に血縁が……?」
しかし、セイバーは凛とは違う方向から驚愕の意を示した。
「それはおかしいです。切嗣には、妻子以外の血縁はいなかった筈。彼の妻のアイリスフィールは先の聖杯戦争で亡くなり、まだ小さかった娘御はドイツのアインツベルンに置いてきていた」
戻らなかったのですね、切嗣。アインツベルンを裏切って、貴方は。
――貴方は、この地で何を見つけたのだ?
「アインツベルンですって!?」
今度は、凛が驚愕する番だった。ほとんど交代で、互いにそうとは知らずに、凛とセイバーの間で爆弾に値する発言を投げ合っているかのようだ。
アインツベルン。それは、遠坂、マキリと合わせて、冬木における聖杯戦争の、始まりの御三家が一角。アインツベルンは聖杯の“器”を用意し、遠坂は管理者として冬木の土地を戦場に提供し、間桐と名を変えたマキリはサーヴァントの召喚システムを作り上げた。
であるからこそ、聖杯戦争に参加する7人のマスターのうちに必ず含まれる、アインツベルン、遠坂、間桐。今回もこうして、遠坂凛がマスターの1人として存在している。
「ええ、切嗣はアインツベルンの庇護の下、聖杯戦争に参加したのです」
「……なるほど、前回の聖杯戦争では、アインツベルンは外部の魔術師を招いたのね」
確か、アインツベルンの得意とするは錬金術だったと、凛は記憶していた。全く戦闘向きではないその魔術を行使するがために、過去の冬木における聖杯戦争では、アインツベルンは途中敗退を繰り返していた。聖杯を手に入れることこそを、何よりの悲願としていたアインツベルンは、独力での獲得を諦めて、衛宮切嗣を手駒にとしたのだろうと、凛は納得した。
「凛は、10年前の戦いを知らないのですか」
セイバーが首を傾げる。
トオサカ。凛の名乗った名に、道理でセイバーには聞き覚えがあったはずだ。それは確か、アイリスフィールをセイバーのマスターと信じて、共闘を持ちかけてきた、あの魔術師の名と同じだ。
あの、徹底して倣岸不遜にして傍若無人、
「……よくは知らないわ。父は、戦争に専念するために母の実家の禅城の家にわたしと母を行かせたから。わたしが知っているのは、父は戦争に敗れて死んだ。それだけよ」
「何ですって……?」
「ひょっとしたら、わたしの父は、貴方のマスターに殺されたのかもね。もしそうだとしたら、ちょっと皮肉な状況だわね、今のこれ。遠坂の娘が、他でもない父の敵だったセイバーをサーヴァントとするなんて」
「……凛……」
「だからって、別にセイバーや衛宮切嗣を恨む気は無いわよ。仕方ないじゃない。戦争だったんだもの」
そう、あれは既に終わった戦争なのだ。アイリスフィールを器にしたあの聖杯は永遠に失われたが、新しい聖杯が現れる。だからこそ、聖杯を望むセイバーはこうして召喚された。
「セイバー」
今度は、凛が不思議そうに問いかける。
「貴方とマスターは、前の戦争で、聖杯に届いたんじゃないの?」
「……」
凛の問いに、セイバーは唇を噛んだ。
人の時間の流れで言えば、10年前は随分前、一昔の出来事になる。だが、死の寸前で、死ぬことを許されずに自分の時間が止まっているセイバーにしてみれば、それは、つい先ほどに起こった出来事のようにも感じられる。
聖杯を目の当たりにした。聖杯を手に出来ると思った。手ずから懐かしき尊ぶべき
それなのに。
切嗣は、セイバーに無情に命じたのだ。マスターがサーヴァントに対する絶対の命令権である、令呪を、しかも2つも以ってして。
「……私は、聖杯を破壊しました」
「何で!?」
「切嗣が何を考えて、私にそれを命じたのか、私には分かりません。切嗣も……聖杯を欲していたのに」
雪深い冬の森で。
可愛らしい小さな愛娘を肩車して戯れていた切嗣。その表情こそよくは見えなかったが、彼の姿は、間違いなく本当に何処にでもいる、娘を慈しむ1人の父親だった。
それなのに、あの男は。戦争において、一切の情を見せることもなく、卑劣な手段をとることを厭いもしなかった。それどころか、積極的に
そのやり口に承服しかねることは何度もあったが、聖杯を手に入れるという共通の目的があったからこそ、セイバーは彼に従っていた。冷酷非情の魔術師は、聖杯に世界の救済を願っていた、と彼の妻が言っていたから。しかし、最後の最後に、切嗣はその目的を文字通り叩き壊したのだ。
「切嗣は、機械の類を好んで使い、魔術師というよりも暗殺者でした。アインツベルンに雇われる前は、“魔術師殺し”として名を轟かせていたと聞きました。……彼には魔術師の誇りはなくとも、信念はあった、それは確かです。彼にとって、聖杯はその信念を打ち砕く敵だったのかも、しれません。だからといって、切嗣の暴挙を許す気にはなれませんが」
「……そう……」
セイバーの表情にも声にも、痛々しい苦渋が満ちている。これ以上の過去の追及は、セイバーの古傷をしたたかに抉るだけだ。殊更に明るく聞こえるようにつとめながら、凛はこれだけは確認しようと口を開いた。これで最後。この答えを聞いたら、もう、セイバーに前回の聖杯戦争についての話題を持ちかけるのは止めよう。
「そんな異端の魔術師に、よくセイバーが召喚できたものねー。よっぽどの触媒を持っていたのかしら?」
どう考えても、水と油だ。目的のためには手段を選ばぬ、“魔術師殺し”を生業とする魔術師と、正々堂々と自らの力量で敵を倒すことを重んじる、誇り高き騎士の王。
通常、マスターに選ばれた魔術師がサーヴァントを召喚する場合、触媒を用いない場合は召喚者の「あり方」に近しい存在の英霊が呼び出される。真逆のサーヴァントを得た衛宮切嗣が何を触媒に用いてセイバーを召喚したのか、魔術師としての純粋な興味が、凛にその質問を発せさせた。
「アインツベルンが、切嗣に、私の剣の鞘を提供したからです」
「え!?」
一体、セイバーは爆弾を幾つ隠し持っているのか。これで最後にしてもらいたいと思いながらも、凛は驚きの声を上げずにいられなかった。だって、アーサー王の剣の鞘は。
「エクスカリバーの鞘はなくなったんでしょ?」
「アインツベルンは、コーンウォールから鞘を発掘したのだそうです。アインツベルンから鞘を託された切嗣は、私に返すよりも、それを自分で持っていたほうが良いと判断したのでしょう。凛もご存知の通り、あの鞘は鉄壁の守りを展開できるものですから。聖杯を破壊した後、私は強制的に元の時間に戻されましたので、その後どうなったかは不明ですが、私の手から聖剣の鞘が失われたままであることに変わりはありません」
「……じゃあ、衛宮家で隠匿されてるという可能性はあるわね」
「そうですね。もし切嗣が鞘を持っているとして、それを素直に私に返却してくれるかどうかは別の話ですけれどもね」
実に苦々しげにセイバーが言う。どうも、衛宮切嗣は、相当に騎士王の不信を買っているようだった。
「……衛宮……士郎、か。とりあえずはマスターたり得る人間として、マークしておく必要はありそうね。最後の1人になるかもしれないし」
セイバーが語る衛宮切嗣という男と、凛が知る衛宮士郎という少年には、重なるところが無いようにも思われるが、同じ姓を持つ人間という接点はやはり見過ごせない。
それにしても。
何かこう、どんよりとした重たい空気が物凄く耐え難い。いや、根掘り葉掘り、色々と訊いてしまった自分が悪いことは、凛も重々承知だが。
「あー、もう、やっぱり出かけるわよセイバー。何か辛気臭くなっちゃった。気分転換、気分転換! いいから付き合いなさい!」
凛は、強引にセイバーの手を取って立ち上がらせた。そのまま、セイバーの手を掴んで、ずんずんと玄関に向かう。
「り、凛!?」
「外の空気を吸いに行くのよ。貴方は騎士なんだから、マスターの言うことには素直に従いなさい」
ともすれば高圧的に聞こえかねない凛の言い方は、決してセイバーには不快ではなった。それは新しく彼女のマスターとなった長い黒髪をなびかせる少女が、以前のマスターとは違って、真に自分が剣を捧げるに相応しい、堂々とした気高さを持つことが分かるからだろう。そして、それを照れくさそうに包み隠してしまう人の良さと。
(凛、私は……必ず貴方を守り、貴方と私の頭上に勝利を輝かせてみせます)
凛に手を引かれながら、セイバーは改めて自分の剣に誓いを立てた。声には出さぬ、しかし、この上なく真摯な誓いだった。
「無用心に過ぎませんか、凛」
一応、セイバーはマスターに対して、諫言らしきものを口にしてみた。
それほどまでに、凛は自らを隠すことなく、堂々と冬木の街を闊歩していたのだ。しかも、閑静な住宅街である深山町ではなく、人通りの絶えない繁華街である新都を。
「いいのよ、敵に見つかるってのなら、それこそ望むところだわ。喧嘩を売られたら、相手が後悔するくらいの値段で買ってやるわよ」
「はぁ……しかし、私は騎士ですから索敵能力には優れておりませんが」
「でも、気配で分かるんでしょ? 大丈夫よ。わたしの
ちなみに、この日の凛の最大の収穫は、セイバーが意外に可愛いらしいものが好きだという隠された事実が分かったことだった。特に、あまりに食い入るようにライオンのぬいぐるみを見つめていたものだから、凛は有無を言わさずにお買い上げして、セイバーに渡したのだった。セイバーはうろたえたが、結局は目元に密かな嬉しさを滲ませて受け取った。
そうやって、ほとんど気ままに街を散策して、敵にも出会わぬまま夕食も済ませた一日の終わり。
凛は、新都で一番高いオフィスビルの屋上に、セイバーを連れて上がっていた。冬の太陽は、とっくに彼方に見える稜線の向こうに没し、暗闇が天を支配している。ここならば、冬木の街を一望できた。
「どうかしらこの眺めは、セイバー?」
「壮観ですね」
セイバーは、言いながらも鋭い視線を地上に向けていた。既に、その麗しい横顔は戦う者のそれであった。敵の潜みそうな場所を探そうとでもいうのか、あるいは現在の冬木の地形を委細洩らさず記憶するためか。凛はセイバーの眼差しを妨げぬように、そっとビルの端まで移動する。
そうやって、凛もまた新都の街並を眺めやる。
この街を舞台に、10年の間を置いて再び行われる聖杯戦争。10年前の傷跡が、ここからはよく見える。
寒々しいほどに広い公園。かつては、そこに家が建ち並び、冬木市民会館があった。
第四次聖杯戦争の、最終決戦の地となったその場所は、その影響による火災のために、ありとあらゆる建造物と住民を焼き尽くされたという。
詳しい事情は、凛も知らない。
ただ、同じことを今回の聖杯戦争で、繰り返してはならない。それだけは確かだ。
凛は決然と、胸の上で手を握り締めた。
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