Fate/another night

Introductory chapter

序幕 1


 今日という日は、昨日の延長上にあって、明日もまた、同じように続いていくのだと思っていた。
 平凡で何の変哲も無いけれど、当たり前だからこそ気付くこともない貴重。そんなごく「普通」の日々の連なりが、どんなに呆気なく終わってしまうのか。
 10年前に、衛宮士郎はそれを知ったはずだった。
 ある日を境に、自分を取り巻く世界が、それまでと丸きり違うものになってしまうことなど。
 本当に、世界なんて簡単に変わってしまうのだと。
 そんな、運命の夜は、もうすぐに。そのあぎとの中に――きっと10年前から既に捕らえられていたとは知らず、衛宮士郎はただ日常を過ごしていた。



 夢を見た。
 真っ赤な夢だった。辺り一面が猛火に包まれて燃え盛り、動くものといえば炎の影か、その炎に浸蝕された末に、力尽きてがらがらと崩れ落ちる建物だけ。
 少し前までは、助けを求める声や、死に至る断末魔の悲鳴があちこちでしていたと思ったが、今はもう、人の声は聞こえない。
 いや、違う。何の音も、聞こえくなっていた。よたよたとぺたぺたと、裸足で歩いている、自分の足音さえも。
 その代わりに、ひどく息苦しかった。肺は酸素を求めて喘ぐが、充分な呼吸が得られない。
 だから、自分は死ぬのだと思った。
 炎から逃れようとして、どれだけ歩いたのか分からない。負った傷の痛みも、肌を炙る熱さも、感じなかった。何も、感じられなかった。自分が、何故歩いているのかも分からなくなっていた。
 逃げろ、と言われたのは覚えている。
 どうか助かって、と言われたのも覚えている。
 けれど、どうやって逃げたらいいのだろう。どうやったら助かるのだろう。逃げ場なんて、何処にも無いのに。
 周りに転がっている、真っ黒な焼死体と同じように、結局は自分も死体になるしかない、きっと。確信に近い予感。死にたくないと思っていたはずなのに、いつの間にか死を許容していた。
 燃やすだけ燃やし尽くして気が済んだのか、降り出した雨の前に、一晩も燃え続けた炎はようやくおさまってきた。
 足がもつれて、仰向けに倒れた。もう、立ち上がって歩くどころころか、手の指一本すら動かせそうにない。呼吸することまでもが、億劫になってきた。濃い灰色の雲が、焦げ付いた大地にぽつりぽつりと重い雫を落としてくるのを、ぼんやりと眺めながら。
 このまま死ぬんだ。
 諦めと共に、そう思ったとき。
 雨とは違う暖かい滴が、その頬を濡らした。
 暖かい?
 炎も熱く感じなかったし、雨も冷たく感じなかったのに、どうしてそれは暖かいと感じられたのだろう。
 誰かが、まだ小さかった自分の手を握って、泣いていた。
『ありがとう』
 そう言って、その人は泣いていた。
『生きていてくれて、ありがとう』
 泣きながら、笑っていた。


 暫く、この夢は見ていなかった。
 朝食を口に運びながら、衛宮士郎はぼんやりと今朝の夢の内容を反芻する。
 もう、今までに何度、この夢を見たのか分からない。夢の中の、過去の記憶。強烈に焼き付けられた恐怖は、トラウマとかPTSD等という言葉で分類されるものだろう。もっと幼い頃は、この夢を見る度に当時の恐ろしさをまざまざと思い出して、怖くて仕方がなくて泣きながらあの人にすがったものだった。
 あの人は、士郎の頭を優しく撫でながら、いつも言ってくれた。
『大丈夫だよ士郎。僕が何度だって助けてあげるから』
 もう、あの人はここにはいない。
 士郎の義父、衛宮切嗣は、5年前に静かに世を去った。士郎は独り残された。少年が1人で住むには広すぎる、切嗣のいなくなった古い武家屋敷は、しかし、あまり寂しさ侘びしさを感じさせなかった。むしろ、賑々しさすらあった。
 今朝だって、こうして。
「こら、もう、士郎! 聞いてるの!?」
「聞いてるよ。ここのところ物騒なことが多いから、早く帰れっていうんだろ」
「そーよ。それなのに、昨日だって遅くに帰ってきて! 桜ちゃんだって心配してたのよぅ?」
「しょうがないだろ、バイトだって、バイト!」
 10年前に冬木市を襲った大火災で、士郎は自分の命以外のものを全て失った。未曾有の大災害の中、本当に奇跡的に生き残った士郎は、助けてくれた衛宮切嗣に引き取られて、切嗣と同じ姓を持つ「衛宮士郎」になった。それは一度死んだ自分が、新しく生まれ変わった証にも思えたし、切嗣と「同じ」ということがとても誇らしく嬉しかった。
 切嗣は、本当に色んなものを士郎に与えてくれた。切嗣という新しい家族だとか、住む家だとか、新しい名前だとか――何にも代え難い、理想と憧れだとか。
『初めに言っておくとね、僕は魔法使いなのだ』
 真面目くさってそう告げた切嗣に、士郎は目を輝かせて、
『――うわ、爺さんすごいな』
 と、感嘆した、らしい。士郎はよくは覚えていないのだが、切嗣が何度も照れくさそうにそのことを振り返ったのだから、本当にあったことなのだろう。だって、あの酸鼻極まる地獄絵図の中から自分を救い出してくれた切嗣は、士郎のヒーローだったから。あんな所で自分を見つけて助けてくれて、それだけで凄いのに、更に不思議な力を持つ魔法使いだなんて! いつしか、士郎は切嗣のようになりたい、と心の底から願うようになった。
 だが、現実とは真に厳しく。
 渋る切嗣に、粘って粘って泣き落としまで駆使して言い負かし、魔術の弟子にはしてもらったが。
 士郎は、どうにも魔術の才能が悲しくなるほど乏しかった。使える魔術といったら、“強化”だけ。しかも、成功するよりも失敗のほうが多いと来た。
 一応、魔術は行使できるのだから、魔術師に必要な魔術回路を士郎は偶然にも所有してはいたということだが、切嗣の実の息子ではないため、衛宮の血脈に代々蓄積されてきた魔術刻印は受け継いでいない。それは、血の繋がった肉親同士でしか継承できないものだからだ。
 それでも。
 衛宮士郎は、胸に抱く理想のために、努力を怠ることはなかった。そうだ、俺は――。
「とにかくねえ、暗くなってから帰るの禁止! 禁止ったら禁止! 士郎に何かあったら、切嗣さんに顔向けできないじゃないのよー」
 衛宮家の半居候であり、士郎の姉代わり、を自認する藤村大河が力説する。衛宮切嗣の知り合いである藤村雷画という人物の孫娘であるのが彼女、大河だ。少々、女性とは思い難い名前をつけられているが、れっきとした女性である。あだ名であるところの「タイガー」と呼ぶと、怒る。猛烈に、それこそ猛虎の如く怒る。怒ってしかも泣く。というか、あだ名以前に名前で呼ぶだけでもアウトだが。実に大人気ない。そのくせ、普段は黄色と黒の虎縞模様の服を愛用していたりする。複雑なお人である。
「あのな、藤ねえ。俺、もう子供じゃないんだけど」
 なので、士郎は彼女を「藤ねえ」と呼んでいる。
 多少……いや、かなり相当、ぶっとんだ、突飛なところもある彼女だが、自分を思いやる心情が本物であることくらいは、士郎も分かっている。まあ、士郎が衛宮切嗣の義理の息子であるから、という要素もその中には若干含まれているのだろうけども。
 大河が、士郎の養父であった人に淡い想いを抱いていたことは、切嗣の葬儀の日に、大河がぽつりと呟いたから、いくら朴念仁だの唐変木だの散々言われる士郎も知っていた。切嗣の方も、ちょっとどうかと士郎が思うほどに大河に甘かった。それは、大河が実は切嗣の初恋の少女に面影がどことなく似ていた、という何というか彼の甘酸っぱい青春の思い出が理由だったそうなのだが……。
 まあ、色々と問題はある人なのだろうけども、全てをひっくるめて、大河は士郎にとって本当の姉といってもいい存在である。
「でも、先輩。藤村先生の心配も仕方ないと思いますよ? 先輩のバイト先って、新都ですよね」
 控えめに、士郎の一年後輩の間桐桜が口を開いた。桜は、士郎の友人の妹で、一年半前に士郎が怪我をした時から家に手伝いに来てくれるようになり、あれよあれよという間に、大河ともども、士郎の半分家族みたいな存在になった。今日の朝食だって、全て桜が用意してくれたものだ。
 だから、士郎は寂しいとは思わない。
 居間の壁の片隅、目立たないところに掲げてある切嗣の遺影に、こっそりと思う。もう、俺、あの夢を見ても泣かないよ、爺さん。
 いつも無精ひげにぼさぼさ頭で、生活能力を疑うほど杜撰でだらしなかったり、これから世界中を冒険するのだとか言って、本当に何処かにふらりと出かけていっては長い時は半年も帰ってこなかったり、色々と困ったところもあった義父だった。しかし、土産話をしながら少年のように笑う切嗣に、士郎は間違いなく憧れを抱いていた。きっと、切嗣のことがとても好きだった。
 ただ、ほんの少しだけ、あのだらしなさは反面教師とさせていただいたが。おかげで、高校生男子にして、特技は家庭料理だったりする士郎だった。
 桜謹製の味噌汁を飲み込み、士郎はつけっぱなしのテレビにちらりと目をやった。
「……ああ、そりゃ最近ほんとに物騒なのは認めるけどさ」
 実際、このところ朝のローカルニュースは、“謎の連続一家惨殺事件”や“新都でガス漏れ多発”など、不吉なニュースでかまびすしい。
 とはいえ、不確かな危険よりも、目下は大事なことがあった。
「藤ねえ、いいのか、時間」
「ええっ!?」
 士郎の指摘に、大河は慌ててテレビ画面の端に表示された時間を見る。桜に「先生」と呼ばれたことから明らかなように、彼女は士郎達が通う穂群原学園の英語教師なのであった。しかも、士郎のクラスの担任にして、弓道部の顧問でもある。実は、結構忙しい身分なのだ。
「もー早く言ってよー! テストの採点まだ終わってないのにー!! 間に合わなくなるー!!」
 そう言いながら、大河は猛烈な勢いで朝食をかきこみ、「ごちそうさま、行って来ます!」と慌しく立ち上がるや、かばんをひっ掴んでだだだと走り出した。余談ながら、茶碗にはご飯の一粒も、皿には食べ残しのひとかけらも残っていなかった。
 士郎は、「はいはい、行ってらっしゃい」と、賑やかな後姿を見送って苦笑した。
「……っと、桜も時間は大丈夫か?」
「はい、今日は朝練お休みなんです。ひょっとしたら、当分お休みになるかもしれません」
「そうか、それも仕方ないか、こんなご時世だもんな」
 桜はそこで、少し俯いてから、意を決したように顔を上げた。
「あの……先輩」
「ん、どうした? 桜」
「やっぱり……弓道部に復帰する気はありませんか?」
 士郎は、以前、桜と同じく弓道部に所属していた。桜が家に来てくれるようになった怪我をきっかけに退部したのだが、その百発百中といわれた腕前を惜しんでか、辞めてから結構な日が経つ今も、桜のみならず弓道部長の美綴綾子も士郎に復帰の誘いをかけてくる。
 自分が惜しまれることは正直ありがたいと思うし、弓が嫌いになったわけでは決してないのだが。士郎の中で、優先順位が入れ替わってしまったのは確かだった。
「……そうだな。桜や美綴が気にかけてくれるのはありがたいけど、バイトも忙しいし。今の所、まだ気を落ち着けて、弓を引こうって気になれないんだ。悪い」
「……いえ、先輩は悪くないです。わたしこそ無理強いしたみたいで、すみません。でも、わたし、先輩がその気になるの、待ってますから。いつでも大歓迎ですからね!」
 にっこりと、桜は笑う。士郎が初めて桜に出会った頃、彼女にはまるで表情というものがなかったなどと、信じられない明るい笑顔だった。
 そんな笑顔を向けられると、今更のように、桜が本当に美人になってきたことを意識してしまい、士郎は慌てて茶碗で赤面しそうになった顔を隠した。
 平和な朝、いつもの朝。
 朝食を終えると後片付けを済ませ、戸締りをして、家を出て学校に向かう。
 当たり前の日常。その崩壊へのカウントダウンが、秘めやかに始まっていたことなどまるで気付かせず。
 運命が、再び猛々しい牙を剥く。もう、すぐに。  



「結局、7時過ぎちまったなあ……」
 友人で生徒会長の柳洞一成に頼まれた用事を片付けるうちに、思わず夢中になってしまって、冬の早い陽は既にとっぷりと暮れていた。
 でも、こんな時間はまださして遅いうちに入るまい。多分。宵のうちだ。けれど、こんなに人通りが無いようじゃ、男の自分はいいけど女の子の桜を1人で帰すのは、さすがにこのところの状況だし危ないだろうな。今日は桜を送って行こう。
 そんなことを思いながら、士郎は自分の家に到る坂道を上がっていこうとした。
 不気味なほどに静まり返った街並。
 何気なく視線を上げて、士郎は気付いた。坂の上に小さな人影が立っていたことに。
 雪銀の髪の少女。濡れた赤い瞳は、最高級のルビーもかくやというほど色鮮やかで。
 明らかに日本人ではない少女は、士郎を待っていたとでもいうのか、目が合ったと思った瞬間に、にこりと愛くるしく笑って士郎が上がる途中の坂を下ってくる。
 そして、すれ違い様に、極上の砂糖菓子を思わせる甘い甘い声で、
「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」
 そう、囁いた。
「……?」
 士郎には、その発せられた言葉の意味が分からなかった。それでも何故か少女から目が離せず、コートを纏い、帽子を頭に載せた小さな後姿が坂の向こうに見えなくなるまで、呆然と彼女を見送った。
「……つっ……」
 その時、不意に、士郎は左手の甲に痛みを感じた。見てみると、ぶつけた覚えは無いのだが、痣らしきものがそこにうっすらと浮かんでいる。
「……何だコレ……」
 何だか紋様みたいだと士郎はその痣を見て思ったが、まあ痣ならそのうち消えるだろうと、あまり深くは気に留めないことにした。
 そうしなければ、何時までも頭の中で反響する少女の謎めいた言葉が、頭から離れなくなりそうな気がしたから。
 早く呼び出さなければ死んでしまうとは――どういうことだ?
 呼び出すって、何を?

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