鋼色。
剣光そのものを宿した、鋼色の瞳。その双眸が、真っ直ぐに衛宮士郎を射抜いていた。
士郎は声もなく、突然現れた青年を、呆然と座り込んだまま見詰めた。
その鋼の色に、まるで魅入られたかのように。士郎の視界は、ただ鋭い光を放って輝く鋼色――それのみで埋められていた。
重い雲の切れ間から差し込んできた月の光が、法外な魔力に彩られた青年の姿をくっきりと縁取った。
丹念に鍛え上げられ、磨き抜かれた利剣を思わせる、堂々たる長身は峻厳さに満ちて。自分が理想に思う、正義の味方とはこういう姿を持っているのではないだろうかと、士郎は、白い眉の下の鋼の瞳から目を離せずにいた。
僅かに吹き込む風が、赤い色をそよがせる。
長躯に黒い鎧、その上に赤い外套を纏った青年は、やはり眼にも声にも感情を一切乗せずに、再び士郎に向かって口を開いた。
「私を、遥か遠き英霊の座よりこの現世へと呼び寄せた召喚者よ。貴様が私のマスターに――間違いないのか」
重ねての問いの中、その声にあえかな困惑と苛立ちの影が潜んでいたことに、士郎は気付かなかった。
「えい、れい……? ……マス、ター……?」
士郎はぼんやりと青年の言葉を鸚鵡返しに問い返し、そして、突如として左手の甲に鋭い痛みを感じた。
「ぁ、……つっ……!」
家に帰る途上で、雪の化身を思わせる白い少女に会った夜。あの時感じたのと似た――いや、もっと大きな痛みだった。さながら、真っ赤に燃え滾った焼き
見れば、当初は、ただの痣かと思われた赤みが、今やはっきりと、何らかの意味持つと分かる紋様めいた形を、真紅に士郎の左手に刻み込んでいる。
「な……これ……、何……だ……?」
何もかもが、士郎の理解を超えていた。学校の屋上での人ならざる少女と男の戦い、蒼い男に殺されたこと、誰かに助けられて生き返ったこと、再び同じ男に殺されそうになったこと、突如として眼前に赤い青年が現れたこと、自分の手に不可解な紋様が浮き上がっていること――。
当人が、まさかと思ったように、全てが本当に「繋がっている」ことなど、魔術師の世界に無縁だった士郎には分からない。分からないから、ひたすら意味不明なこの状況に、目を瞬かせることしか出来なかった。
そんな士郎を暫し見やり、青年はやがて嘆息を隠そうともせずに一緒に言葉を吐き出した。
「……やれやれ。召喚に応じてみれば、呼び出してきたのはこうも未熟な、聖杯戦争の何たるかも知らぬ、状況も把握できぬ、正規のマスターではない見習い同然の魔術師未満だとはな。とんだ外れくじだ」
「な」
あからさまな冷笑を浴びせかけられ、さすがに士郎もかちんと来る。思わず、士郎は蚊帳の外に置かれたような現況への、多少の八つ当たりの気配を込めて、青年に食って掛かった。
「俺がお前を召喚したって言うけど、俺はそんなことした覚えないぞ。聖杯戦争って何のことだ。――そもそも、大体、お前、誰なんだよ?」
一拍、青年は士郎の問いかけに躊躇いに似たものを見せた。が、予想よりもはるかにあっさりと、
「……私は、サーヴァント――アーチャー」
「……
青年の、本人の本名とは到底思えぬ名乗りを士郎が聞いた、その刹那。
「!?」
士郎は自分の体に、再びの異変を感じた。しかも、今度は手の甲どころではない。
魔術を行使しようとする都度にいつも一から作り出している、普段は閉じられている全身の魔術回路が、強引にこじ開けられる感覚というのか。痛みどころではない、今だ知ったことのない、強烈過ぎる衝撃に、悲鳴も出ない。体内の魔力という魔力が逆流する。そうやって、士郎の中から吸い出された魔力は、目に見えないラインを伝って、青年へと注がれていくのが分かった。
青年が、明らかに目元を険しくした。自分の体を見下ろし、いかにも不服そうに首を振る。
「致し方あるまい。甚だしく不本意ではあるが、どうやら契約は完了してしまったようだ」
「け、……契約って? 何のだ? ……何で?」
魔術師未満と言われた士郎だが、契約という言葉の持つ魔術的な意味まで知らないわけではない。
魔術師と“契約”を行うのは、せいぜいが魔術師の代わりに雑用をこなす使い魔だ。だが、この青年が使い魔の類であるというのだろうか、まさか? 使い魔とは、こんな鮮やかな強い存在感を持った、ましてや人と同じ姿を持ったものではないはずだ。
士郎の疑問には答えず、アーチャーと名乗った青年は、本人自身が剛弓から放たれた矢であるかのように土蔵を飛び出した。外で赤い槍を構える男に向かって。
士郎にはっきりと分かったのは、あの青年もまた、先刻まで自分を殺そうとしていた男と、「同じ」存在なのだ、ということだけだった。あんな魔力を放つ存在が、ただ人であるわけがない。
「って、ちょっと待て!」
その事実を自分の中で消化してようやく、士郎は我に返った。
アーチャーが、今にもこちらに襲い掛かってきそうな、槍を携えた男に戦いを挑みに行ったことを理解して、士郎は慌てて痛む体を懸命におし、彼の後を追って土蔵の外に出た。
自分が行ったところで何にもならないことくらい、分かっている。
ただ。
何も分からないまま、このまま全てを見過ごしてしまうのは、どうしても嫌だったから。
ぎいん、という音が響き渡る。
何時の間にやら、アーチャーの手には短剣が抜きつられていて、彼はその武器で蒼い男に向かって跳躍しつつ上段から斬りかかったのだ。
槍持つ男は、落ちかかってくるアーチャーの短剣を自ら迎え撃ち、逆に弾き上げた。そのまま、アーチャーを貫き通そうとする槍の刺突は、その穂先を打ち払われて軌道を逸らされた。
稲光に似た光が散り、夜の庭を照らし出す。
アーチャーは腕を振り上げて槍を押し返し、槍の追撃を躱せる距離を置いて着地した。
赤と蒼が対峙する。両者の間の開きは、5メートル弱といったところ。長柄の武器である槍を持つ男にしてみれば、無いも同然の距離だろう。
蒼い男は、赤い目でじろりとアーチャーを
「7人目のサーヴァント……。
男の声にも、アーチャーは答えない。
「……セイバーと同じに、お前もだんまりかよ。……まあいい。好みの相手じゃあないが、出会ったからにはやりあうだけだ。そら、
「……ふ」
小さく息を吐く音に似たそれは――笑い、だったのか。
アーチャーが疾る。外套がたなびく。さながら、赤い突風、赤い弾丸。
そして、槍の射程範囲をかいくぐり、男に肉薄しようとする。アーチャーの持つ武器が短剣である以上、それは当然の戦い方だ。
「――たかが弓兵風情が、このオレに接近戦を挑もうというか。愚かだな」
だが、男は、アーチャーの接近を許すまい、と槍を振るう。
基本的な槍を使う戦術は、自らの武器の長さを活かし、戦いを制すること。であるが、男はそんな基本など無視し、自ら前進してきた。
そう、男の凄まじいまでに水際立った槍術には、定石など不要だった。アーチャーをその場に押し留めるように間合いを詰め、縦横無尽、的確に間隙無く眉間や肩、腕や脚、胸など、ありとあらゆる体の箇所を狙ってくる。
だが、アーチャーもその都度に男の攻撃を見切っているように、短剣ひとふりで槍の穂先を弾いては受け流し、男の懐目がけて進もうと動く。
軌跡が点である槍は、線である剣に比べて、確かに攻撃を読むのは難しくないだろう。ただし、それは人の技であれば、の話だ。実際、士郎は男の槍筋など、見ることも出来なかった。アーチャーはそれを読み取って、敵の攻撃をいなしている。
だが、やはり竿状武器である槍に対しては、短剣では攻撃範囲も攻撃力も、不利が否めない。踏み込もうとするアーチャーだが、長槍の柄での薙ぎ払いに阻まれ、攻撃に転ずることも出来ずに僅かながらもじりじりと後退する。
ましてや、男の槍には戻りの隙など存在しなかった。その打突の鋭さは、高速などという段階をとっくに超え、神速の域だ。アーチャーの後退の分だけ、反動をつけて勢いとし、更なる強撃を放つ。息つく暇など許さぬ、大瀑布じみた怒涛の連撃の前に、アーチャーは防御一方で為す術などないように見えた。アーチャーの武装は、決して重装備ではなく、鎧による守りはさほど期待できない。迂闊に動けば、穂先に貫かれるか、柄による払いに打ち砕かれるか、いずれにせよ、致命傷に値する一撃を食らうのは目に見えている。それは、もはや技巧などという段階で語られるものではない。
神技。そう表現されても何の違和感も生じさせない、男の卓絶した槍技は、殺されかかった士郎であっても、感嘆せずにいられない見事さだった。
と。
ィィィィィン……。高い余韻の音を残して、アーチャーの手から短剣が弾き飛ばされた。男が、その赤い長槍を、アーチャーの短剣を巻き込むようして薙ぎ払ったからだ。防ぐことなど不可能な一撃。
「間抜けが――!」
無手となったアーチャーに、男が嘲笑する。容赦なく止めを決すつもりか、間髪入れずに振るわれる槍。それは、あるいは刹那よりももっと短い、時間とも呼べぬ間のことだったろう。迸った槍は、三筋に分かれたように、アーチャーの眉間、首筋、心臓を穿ち貫かんと閃光と化す。
しかし。
夜闇の中に、日輪の如き光。その輝きの前に、男の槍は見事に食い止められていた。よもやまだ抵抗されるとは思っていなかったのか、男が目を瞠る。
「!?」
アーチャーの手には、弾かれたものと寸分違わぬ、同じ刀が再び握られている。いや、違う。今度は両手に握られたそれは、陰陽一双、左右対称の夫婦剣だった。
士郎は、彼が握る刀を見て、思わず息を呑んだ。
(……あれは)
今朝方の夢に見た、双刀と全く同じ。
あれは、予兆だったというのだろうか?
「二刀使いだと……弓兵風情が、剣士の真似事か!」
男は殺気を膨れ上がらせる。烈風が逆巻き、重さと鋭さを更に増した刺突が、アーチャーに襲い掛かっていく。アーチャーの手にする二刀は、裂帛の気合をもって槍を弾く。それどころか、もはやこれ以上は退かん、と、宣言の代わりにアーチャーは防御から一転、攻撃に転じる。
激突しあう、刀と槍は音高く、剣戟を響かせる。大気を切り裂き突風を巻き起こし、庭土を穿ち、びりびりと周囲を震わせる。
凄まじいまでの魔力の相克。白黒の切先、赤い穂先が斬り結ばれるたび、庭が閃光に包まれる。両者の間には、周囲の風がごうごうと唸りを上げる真空状態すら作り出されているだろう。
傍から見ている士郎にとっては、とてつもなく長い時間に思える戦いだが、本当はとても短い間の激闘。
双刀を振るうアーチャーは、男に向かって間合いを詰める。男は、そうはさせじと猛攻する。アーチャーの手からは何度も剣が弾かれ、儚い音を立てて折れる。
しかし、アーチャーは、その度に次の刹那には再び双刀を手にしていた。そして、立ち止まることなく双刀を盾代わりにしては蒼い男へと剣閃を走らせる。
男の槍技が天性のものだとすれば、アーチャーの剣腕は真逆だった。ひたすらの研鑽と、数知れない経験を踏んだ上で磨かれた、理論から導き出される戦闘技術――血の滲む、血を吐くような努力の末に得られた、一つの到達点。
士郎は、人知を超えた戦場の前に圧倒されて立ち尽くしていた。赤と蒼、2人の男が激突する様は、さながら色の違う炎が燃え盛っているかのようだった。
(――!!)
その炎が、得体の知れない感情となって、胸の奥を焦がしているのではないか、とまで思われた。
そう。
学校の屋上で見た、少女の力強くも流麗な剣捌きよりも。
長大な武器を何の苦も無く軽々と扱う、男の自在の槍捌きよりも。
士郎にとっては、アーチャーの無謬の技に、心惹かれずにいられなかった。それは、とても憧れという感情に似ていた。
そうやって、両者共に打ち合うこと、何合、何十合、あるいは百合を超えたかした頃。
男はアーチャーを単なる弓兵と侮った、自分の油断を認めたか、大きく槍を払って跳び退った。
「……これで二十七。これだけ弾き飛ばしても、まだあるか」
微かな苛立ちと共に、男は眉を寄せる。
士郎には、男の当惑の理由は分からない。
そう、本来、サーヴァントの持つ武器は一つ、あるいは二つ。それらは、大抵が“宝具”の本質を秘め持つため、サーヴァントにとって唯一無二の武装であり、アーチャーがやってみせたように、使い捨てに出来るものなどではないと、今の士郎に知る術は無かった。
そして、彼が“弓騎士”である以上、アーチャーの本来の武装は弓であり、剣ではないということも。
「貴様、何処の英雄だ。二刀使いの弓兵なんて、聞いたことねえぞ」
それなのに、アーチャーは剣士として戦った。つまり、敵に対して自分の手の内を全く見せていないのだ。
「弓兵だからといって、弓しか扱えぬわけではないよ。それに、真名を問われて答えるサーヴァントなど、そうそういるまい、
初めて、アーチャーが男に向かって言葉を発した。アーチャーにランサーと呼ばれた男は、眉尻を鋭く上げる。重ねて、アーチャーは言った。
「そういう君は分かりやすいがな。獣の如き敏捷性に、赤き呪いの魔槍――
士郎はぎくりと体を強張らせた。
ランサーが、アーチャーの言に反応して、たちまちのうちに冷たい殺気を全身に漲らせたからだ。その感覚を知っている。
数時間前の戦いにおいて、ランサーが見せた奇怪なる一撃。あれを思い出す。
少女の足元を狙っていた槍は、ランサーが口にした、明らかに力あると知れた言葉を受けて、突如として軌道を変えた。
まともに槍を食らったと見えたあの少女は何とか持ちこたえていたが、アーチャーもそうなるとは限らない。いや、一度、敵を仕留め損なったランサーは、今度こそ外しはしないだろう。
どういう仕組みかは不明ではあるが、士郎にも分かったことは、あの槍は、因果を逆転する呪いの力を持っている、ということだ。所有者によってキーワードめいた言葉と共に放たれることで、結果と過程の順序を変えてしまうのだ。狙われた者は、防ぐことも躱すことも出来ずに、必ず当然のこととして心臓を貫かれる――。
アーチャーに抗する術があるのか?
だが、ランサーは、はあと息を吐いて殺気を引っ込めてしまった。
「……何の真似だ、ランサー」
訝しげに、アーチャーが問う。
「危うく、挑発に乗せられるところだったぜ。それこそ、初見の相手の度に、一晩に何回も宝具を使えるかっての。誰が見てるかしれねえしな。お前の、あそこで惚けてるマスターは使い物になりゃしねえし、ま、互いに十全の状況になるまで勝負は持ち越しといこうぜ」
それまでの殺気を何処へやってしまったのか、ランサーは飄々と言い放った。アーチャーは両の眼を
「私がそれを受け入れるとでも?」
「お前が嫌だってんなら、あの坊主を殺すまでだな」
視線だけで、ランサーがアーチャーの背後、土蔵の入り口で立ち尽くす士郎を指し示す。
「……」
ぐ、とアーチャーが双刀を握る手に力を込めた。それも束の間、僅かな逡巡の後、アーチャーは両手から力を抜いた。その途端、二刀は何処に仕舞い込まれたものか、アーチャーの手から消えた。
「――去るが良い、ランサー。追いはすまい」
「は、賢明な判断だ、追ってきたら間違いなく
一笑した後、ランサーの姿は、かき消されるようにして見えなくなる。
「な、き、消えた……?」
違う、消えたと見えたのは誤りで、ランサーは一瞬のうちに塀の上まで移動していた。瞬間移動したのか、と思うほどの速度でそこまで跳躍したランサーは、そのまま背を翻し、蒼い戦装束姿を夜の中に溶け込ませるようにして、何処かへと去っていった。
もはや、士郎の思考は飽和状態だった。アーチャーが自分の前に歩み寄って来ても、それに気付かないくらいだった。
「……何時までぼんやりしている」
冷ややかな声に、士郎は頭上を仰いだ。
褐色の肌の上の鋼色が、士郎の顔を映していた。
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