凛は、意識を集中して「話しかけた」。無論、その相手はいうまでもなく彼女のサーヴァント、セイバーだ。マスターとサーヴァントは、繋がった魔力の
「……セイバー、学校に結界が仕掛けられてあるわ」
霊体化できないセイバーは、マスターが1人で学校に行くことに、自分がついていけないのでは危険ではないかと反対したのだが、凛は学校には魔術師はいない、と断言して登校したのだ。
サーヴァントが霊体化していてもサーヴァントを知覚できるように、魔術師には魔術師が分かる。1年間、凛は用心深く、校内に魔術師の影が落ちていないか調査をした。その結果、魔術師の家系に連なる者こそもう1人――いや、本当は後1人いるが、魔術師ではないので――が存在すれど、それでもマスターになれると認められるに値する力を持っているのは凛本人のみだと結論付けた。事実、凛の知るもう1人の学園内の魔術師は、マスターにはなっていなかった。
本来であれば、優先的に令呪が与えられて然るべき間桐――冬木の聖杯戦争における始まりが御三家の一角マキリの跡取り息子、間桐慎二は確かに魔術師一族の正嫡ではあるが、現在の間桐の魔術師としての
いずれにせよ、魔術師同士の戦いは、人目につかぬように行うが鉄則。人の目が絶えない学校では、逆に安全といえなくもない。ただ、もし万が一敵がいて戦闘になるようなら、令呪を使ってでも貴方を呼ぶから、と凛はセイバーを説得したのである。
それが。
「
セイバーが、静かに訊く。責める口調ではないが、それだけに凛の見通しが甘かったことを指摘する鋭さがあった。凛は、しかし、余裕を持って応じる。
「そうなんだけど……。まあ、大丈夫よ」
「……そうなのですか?」
「結界はまだ発動していないの。準備段階なんだけど、それが他の魔術師に気取られるっていうのは、よっぽどの自信家か――よっぽどの三流の馬鹿かどっちかだわ。ま、わたしのテリトリーでこんな下種な真似しでかすやつは、さっさと見つけ出してひねり潰してやるけどね」
「凛」
凛のみに聞こえるセイバーの「声」に、やや溜息の成分が混じった。
「貴方は、実に優秀な魔術師です。それは実際に誇るべきことであって当然のこと。しかし、だからこそ、貴方には他人を過小評価するきらいがある。油断大敵という言葉もあります。こと、戦いにおいてはほんの僅かであっても油断は油断、簡単に死に繋がり得るのです。どうか、
「……う、分かったわ、気をつける……」
セイバーは遠慮会釈もなくずばりと言い切ったが、それが真剣に自分の身を案じる心情の表れであることが容易に分かるので、凛は反論もせずに素直に受け入れた。極上の
凛自身には自覚がないことだが、遠坂家に代々伝わる“うっかり”の悪癖の大部分は、セイバーが指摘した自負の強さから発生している。自らに対する誇り高さは正当な自己評価ではあるが、無意識の侮りによって足元をすくわれて命を落とすような危険だけは、何としても防がねばならない。無論、セイバーはそんな事態にならないよう、最強とも言って良いほど得難いマスターである凛を全身全霊で守るつもりではあるが、まずは本人に、少しでいいから自覚を持ってもらうことが肝要だ。それが有る無しでは、心構えが変わってくるのだから。
「とはいえ」
セイバーは微笑んだ。優雅さよりも清冽さが勝る彼女の笑顔は、凛にも確実に「気配」として伝わる。男性としてその人生を過ごしたセイバーは、女性としての婉麗さとは基本的に無縁である。彼女の美しさは、硬質に澄んでいる。それこそ、自身が女ではなく、騎士だと主張するようが如くにだ。
「貴方の勇ましさは正直、好もしく思います。敵と戦うことは、私にとっても望むところです。諫言は諫言として、心に留めておいていただければ結構。貴方の長所は、短所よりもよほど尊いのですから」
「……ありがと」
そして、いかにも騎士そのものに、セイバーは何事にも常に真っ向から斬り込んでくる。賞賛の言葉もまた、小細工も小手先も無しに、極めて真っ直ぐに。
それは、凛に与えられた信頼の証だ。これほどまでに曇りのない信頼を手向けてくれる相手に対して、自身もまた堂々と彼女の隣に立てるマスターであらねばならぬ、ごく自然にそう凛は思う。そのためには、聖杯戦争に関わり無くとも、まずは学校に結界などを張ってくれた馬鹿者を張り倒さねば。
その、結界に付随して判明した事実を、凛はセイバーに告げる。
「それでね、セイバー。今朝分かったことなんだけど、実は学校に魔術師がもう1人いたの。……衛宮士郎、よ」
「……!!」
衛宮、という名にセイバーが鋭く反応した。
「魔術師でないと察知できるはずのない、結界の存在に気付いたわ。ただ、わたしも今まで魔術師と分からなかったくらいの、魔力もすっからかんに近い未熟者みたいだから、結界を結界とは認識できてなかった様子だった」
「……では、その者はマスターではない、と?」
警戒を込めて、セイバーの柳眉が跳ね上がる。セイバーは、衛宮士郎の
セイバーの、質問というより確認に、凛は慎重に答えた。
「今のところはね。ただ、まだサーヴァントは残り1人が召喚されてないのよ。
セイバーを召喚する時点で、7騎のサーヴァントのうち5騎が既に召喚されていたということは、監督役の神父に召喚をせっつかれたから凛は知っている。セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー。セイバー以外のいずれかのサーヴァントが未召喚であり、聖杯戦争には7人のマスターと7騎のマスターを必要とする。マスターに選ばれる資質というのは、魔力の大小はさほど問題ではなく、要は魔術回路を有するか否か、それだけだ。
そう、イレギュラーは何時だって思いもかけないところからやってくる。前回の聖杯戦争時、勝利は確実だと思われていた凛の父が、敗死してしまったように、である。
「凛」
暫しの沈黙の後、セイバーは凛に声を返してきた。
「今は、マスターではない魔術師のことは放っておきましょう。差し当たっての問題は、その学舎に仕掛けられたという結界の対処ですね?」
「ええ」
凛にとってもセイバーにとっても、確かに衛宮士郎は「引っかかる」存在ではある。だが、決してそれ以上ではなかった。従って、すぐに2人の意識は衛宮士郎という名から離れた。
「今日は土曜日だから、授業は午前中しかないの。午後から結界がどんなものか調査をするわ。だから、セイバー、学校に来てちょうだい。万一、結界を張った魔術師と戦闘になるとしたら、貴方がいてくれた方が心強いし。待ち合わせ場所は、学校裏の林ね」
てきぱきと凛はセイバーに指示を与えた。それに対して、セイバーはすぐには、はいとは頷けなかった。他ならぬ、凛の指示そのものに疑問があったからだ。
「霊体になれない私のこの姿では学舎に入れないから、私は留守番を仰せつかったのでは……」
「ご心配なく。ちゃんとわたしに考えがあるから。じゃ、また後でね」
いい手段があるのなら、別に残る必要は無かったのではないか、と、セイバーは若干の不満めいたものを抱かないでもなかったが、学校にひょっとしたら敵がいるかもしれない、という推測には凛は積極的でなかっただけなのだから、今度は素直に了承の意を伝える。
「わかりました、後ほど」
セイバーの返答を確認した凛は、意識を外して、念話を終了した。
凛の隣で廊下を歩きながら、セイバーは問いかけた。
「……本当に、これで大丈夫なのですか?」
「今までにすれ違った誰かが、セイバーに不審の目を向けた?」
学校とは、一種の閉鎖された空間である。中に存在を許されるのは、教職員と生徒のみであり、それ以外は部外者で、原則的に立ち入りは禁止だ。
だが、セイバーは穂群原学園の制服を身に着けてはおらず、普段着のブラウスとスカート姿である上に、何よりも、明らかに日本人ではない金髪緑眼を持つ、誰の目から見ても立派な部外者だった。それでいて、彼女は誰にも見咎められることがなかった。
それは、凛が施した魔術の成果である。セイバーの周辺に、ちょっとした“暗示”が働くようにしてあり、そのため、魔力を持たない人間は彼女を見ても、何の変哲もない普通の一般生徒であると視認するのだ。実際に、凛とセイバーはこれまでに何人かとすれ違ったが、一切彼女らは訝しまれることがなかった。
「最初からこうしてれば良かったんじゃないかって、思ってるでしょ?」
「そう思っていました」
少し悪戯っぽい表情で、凛はセイバーを見た。そして、セイバーはというと、不服の色も出さずに
「あら、過去形なの」
「キャメロットの円卓に、円卓の騎士以外が混じればすぐに露見します。そういうことでしょう、凛?」
全くもってセイバーらしい納得の仕方に、凛は小さく笑った。
「そ。人の出入りがある放課後ならともかく、固定されてしまってる授業中はやっぱりね」
「……やはり、不利ですね」
言いながら、セイバーは軽く唇を噛む。
死の寸前でこの世に踏みとどまりながら、サーヴァントとして召喚された少女は、それを自身の不甲斐無さとして改めて責任を感じているようだった。
だが、それは既に、その事実をセイバーに打ち明けられた凛には、さほどの重荷に感じられはしなかった。ただ、「そうせねばならなかった」少女の生き方へは、複雑な思いを抱かずにはいられなかったが。
「そうね、でも仕方ないわ。責任なんて感じなくてもいい。それくらいのハンデは、甘んじて受けましょ」
軽く笑って凛は肩を竦める。そして、少々意図的に付け加えた。セイバーに言われたことは、ちゃんと心に刻んでいるのだと言いたげに。
「そうでもなきゃ、わたし達、有利すぎるもの。あ、これは慢心じゃなくて事実だからね、セイバー。信頼してるのよ」
「――はい。そう言っていただけてありがたいと思います、凛」
マスターのそんな言に対し、セイバーは、あくまでも生真面目に頷いた。
そうやって、2人して結界の調査のために校舎内を歩き回っていると、凛に向かって意外そうにかけられる声があった。
「あら、遠坂、先輩?」
「桜」
あまりおおっぴらに友人づきあいというものをしない遠坂凛の、数少ない友人に弓道部主将の美綴綾子がいる。そのため、同じ弓道部に所属する一年生の間桐桜とも、凛はそれなりに親交があった。何より、彼女は当代のマキリである間桐慎二の妹、で。
警戒するわけではない。魔道の一門に生まれついても、一子相伝である魔術の知識を授けられるのは嗣子のみだ。桜は、間桐の家の者であっても、一般人と何ら変わりはないのだから。ただ――望まぬ戦いに、血故に巻き込まれて欲しくはないからこそ、凛は桜に注意を払っていた。
そういった事実を知らずとも、セイバーは直感的に
少し驚いた風に目を丸くしながら、桜は凛に話しかけてきた。
「珍しいですね、先輩が授業が終わっても学校に残ってるなんて」
「ええ、ちょっと用事があってね。桜は部活だったの?」
「はい。でも、もう部活は終わったんで帰るところだったんですけど、教室に忘れ物をしてしまって、取りに行ってたんです。……先輩は、まだ帰らないんですか?」
冬の空は刻々と青みを失いつつある。陽が完全に落ちてしまえば、時間は日常から魔術師の戦いの場に切り替わる。
逢魔が刻。
無論、凛は魔術師の顔を出すことなく、あくまでも優雅な優等生、遠坂凛として微笑んだ。
「もう少ししたら帰るわ。……そういえば、桜」
「はい、何ですか?」
「最近、どう? 調子」
「あ、はい、元気ですよ、わたし」
「……ほら、わたし、ちょっと前に慎二をふっちゃったじゃない? それで、アイツが桜に八つ当たりしちゃってたら、そこだけは悪いことしたなって思って。慎二のヤツ、頭に血が上ったら見境ないから」
桜は、凛の言葉を聞いて、にっこりと笑ってみせた。
「大丈夫ですよ。兄さん、最近は優しいんです」
その桜の笑顔に凛は何か感じるものがないわけでもなかったが、桜が笑っている以上は、何も言えなかった。
「……そう、ならいいけど。引き止めてごめんなさいね、桜。気をつけて帰ってね」
「じゃあ、先輩。お先に失礼します」
ぺこりとお辞儀をして、桜は身を翻す。その背が見えなくなるまで、凛が桜を見送っていたことに、セイバーは気付いたが口に出しては何も問うことはなかった。
夕闇が支配する屋上。校内を丹念に調べ終わった凛は、セイバーを連れてそこにいた。
屋上のタイルの上には、魔術師にははっきりと見える赤紫色の刻印が描かれている。
それを見下ろして、僅かに凛は拳を握り締める。強くなってきた風が、彼女の黒い長い髪を吹き乱した。
「これで七つ目。――セイバー」
そして、いつもよりも硬さを感じさせる声音で、静かに傍らに立つセイバーに問いかけた。
「あなた達、サーヴァントは基本的に霊的存在だから、魔力を栄養分にする
「……その通りです。我々の食事は、魂、精神といったもの。そうやって取り込んだ魔力の貯蔵量を増やせば、自らの行使する力の上限も増える――つまり、戦闘行為において有利に立てるということです」
セイバーの返答に、凛は呪刻を指差した。
「あなたにも分かるでしょ? これは……この結界は」
「――
きりと唇を噛み締めた凛に負けず劣らずの厳しい表情で、セイバーは頷いた。彼女の結い上げられた金色の髪をまとめた、青いリボンが揺れる。
「マスターの命令だろうが何だろうが、許せないわ、こんなの」
「はい。いかに戦いが無辜の民の犠牲を招くものだとしても、断じてそれを目的にすることなどあってはなりません」
気高き騎士の王は、マスターの静かな怒りに同調する。
つまりは、この結界の意図は中に存在する人間の生命活動の圧迫である。しかも、体を溶解させ、留まる場所をなくした魂を強引に集めて、サーヴァントの“滋養”にしようというものだ。
「しかも、何が腹立つって、この結界は桁違いの技術で括られているのよね――わたしの力じゃ、妨害しか出来ないけど、それでもしないよりはましね」
制服のブラウスの袖をまくり上げた凛の左腕に、ぼうと紋様めいたうねりもって霞む光。
これこそが、遠坂の家に代々伝わる魔術書、魔術刻印。それに魔力を通し、結界を消去させるための魔術を発動させるための詠唱を口にする。
左手を刻印に当て、魔術を流し込む。
「
そうやって、魔力を通すことで、呪刻の効力を一時的にでも打ち消そうとした時。
「なんだよ。消しちまうのか、勿体ねえ」
心底楽しそうな男の声が、凛の鼓膜を打った。
誤字脱字の報告、ご感想などありましたらご利用ください。お返事はmemoにて。