深夜0時。士郎は土蔵の扉を開き、“日課”をこなす。
魔術師は、自らの研究の追求のための工房を持つ。この土蔵こそが、衛宮士郎の“工房”である――といえば、大抵の魔術師は失笑するだろう。半人前にも満たない未熟者が工房を所有することからして噴飯ものなのに、隠匿を旨とする魔術師が、誰でも出入りできるような場所を工房とするなど、正気の沙汰ではないと。
何せ、この土蔵でしばしば寝泊りする士郎を起こしに来る桜や、何か壊れかけのがらくたやらを適当に持って来たりする大河などが入りたい放題なのである。自らの成果を秘することなど不可能だ。
だが、魔術の探求をしているわけではない士郎にとっては、無論、そんなことは知ったことではない。正確を期すなら、知らないという方が正しい。本来の魔術師にとっては、魔術とはそのものがある意味、目的である。いずれ真理に到達するための学問だ。
士郎にとっては、違う。正義の味方を目指す。魔術とは、彼にとってその手段以外には何物にもなり得なかった。そもそも、士郎は魔術師達の集団――魔術協会に、縁も繋がりも無いのだ。それは、彼の魔術の師であった養父・衛宮切嗣が協会と手を切ったアウトロー、独立独歩の魔術師であったためである。
ともかく、この場所で、士郎は毎日の魔術の鍛錬を独自に行っていた。
所定の位置に付き、結跏趺坐に座す。そして、呼吸を整えて、自らの体内の神経を
「
切嗣は、士郎には魔道の知識は与えなかった。ただ、士郎に魔術師として生きるための筋道を示しただけである。けれど、士郎にしてみれば、それで充分だった。士郎が憧れたのは切嗣であって、魔術師ではない。
かくいう切嗣はといえば、本人が『僕は魔法使いなのだ』と言った通り、彼は生粋の、
一度だけ、切嗣は士郎に対し、自らの魔術を実践してみせたことがある。
『
呪文の詠唱を終えたと思った瞬間に、切嗣は常人にはありえない速度で地を蹴りながら、でたらめに予め置いてあった的を次々と手にした拳銃で撃ち抜いていた。
はじめ、何が起こったか士郎は分からなかったが、気付いたときには的が全て弾痕を遺して貫かれ、硝煙を漂わせる切嗣が隣に立っていた。それで、切嗣が魔術を行使したのだ、ということが理解できた。
『今のが、爺さんの魔術?』
初めて目の当たりにする切嗣の魔術師としての姿に、士郎は興奮を隠しきれなかった。
『そうだよ。僕の編み出した“固有時制御”の魔術さ』
『すっげえ……すげえすげえすげえすげえ!! ねえ、俺もああいうのできるようになれる!?』
衛宮切嗣以外の魔術師を知らない士郎にとっては、切嗣の使用した銃という近代兵器が、魔術師にとっては邪道もいいところであるということは、勿論念頭に無い。そして、切嗣自身がかつては外法の“魔術師殺し”の衛宮、として名を馳せたことも、士郎は知らない。ただ、魔術を見せてくれた切嗣は、士郎にとっては最高にかっこよかった。それだけだ。
目を輝かせる士郎の頭を撫で、切嗣は、しかし、少し寂しそうに笑った。
『衛宮の家に代々伝わってきたのは、この“時間操作”の魔術なんだけど……残念ながら、士郎にはこれを教えるのは無理だな』
『なんでさ!? そんなに難しいの?』
『難しいというより、不可能なんだ。衛宮の秘法は、僕の背にある魔術刻印に蓄積されている。だが、この魔術刻印というのは、血の繋がりによってのみ継承されるんだよ、士郎。それ以外の人間には、命を奪ってしまうほどの拒絶反応が出てしまうんだ』
衛宮士郎は、衛宮切嗣に「衛宮」の姓をもらったが、切嗣の血は引いていない。従って、衛宮の魔術師が代々重ねてきた血脈による、魔力を精製するための擬似神経である魔術回路の数も、5代目の切嗣に到るまで歴代の衛宮による魔術の知識を積み重ねてきた魔術刻印も、士郎には受け継がれていない。生まれが一般人である士郎には、世界からより大量の魔力をくみ上げるための、多くの魔術回路など望むべくも無い。
それでも、どんな人間にも何か一つは使える術がある――と、切嗣が義理の息子の素質を生かせそうだと考えたのが、“強化”だった。
士郎は、ものの構造を把握し、設計図を明確にイメージする能力に優れていた。であるから、元からある物質の構造を理解し、それに手を加える強化の魔術が向いているだろう、と切嗣は判断したのだ。
「――基本骨子、解明」
生まれもった才能が無い以上は、鍛錬という努力をひたすら重ねるしかない。
折れた鉄パイプを手に取り、士郎はそれに魔術回路を起動させたことによって発生した、魔力を流し込もうとする。
「――構成材質、解明」
ただ、それは「既に完成されたもの」にそれ以上を魔力によって付与しようとする行為だ。あくまでも材質そのものを変化させるのではなく、その物体が持つ能力を向上させる魔術。
「――基本骨子、変更。――、――構成材質、補強」
だが、それは100%のものに更に無理なく完成度を足そうとするわけで、元から難易度の高い魔術である。魔力の生成ですらも時に覚束ない、半人前でしかない士郎は、今日も魔術に失敗した。士郎にとっては、強化よりもゼロから何かを作り出す方が簡単な気がするのだが、それはそれで形だけを真似したにすぎない木偶が出来上がるだけで、いずれにせよ彼が未熟であるには変わりない。
魔術の行使から来る多大な心身の疲弊に、地面に手をつき、荒い息を吐き出しながら、士郎はびっしりとかいた汗を拭った。
「……こんなザマじゃなあ……」
――衛宮士郎は、正義の味方を目指している。藤村大河が夕食時に言ったように、それはずっと士郎が抱き続けている理想だ。
だが、どうすればそれになれるのか。切嗣と同じように魔術師になれば、正義の味方に届くのではないかと思っていたが、まるで徒労をただ重ねているだけでしかない自分が歯痒くて仕方が無い。
『誰かを助けるという事は、誰かを助けない事。……正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ』
切嗣は、正義の味方に憧れる士郎に、何度もそう言った。
正義の味方って、本当は何なのだろう。時々、ふと士郎は考える。
切嗣がいなくなって5年。切嗣の後を嗣ごうと、懸命に頑張ってきたつもりではあるが、あまりに進歩が無いように感じられて、迷いがじわじわと体の芯にある理想を浸蝕してしまいそうな気がする。この先、どうすればいいのか、どうしたら正義の味方になれるのか。
誰も彼もを助けたいと思う。誰かが笑っても、誰かが泣いていたらそれでは駄目だと思う。1人を助けるために別の人を見殺しにするのは違うと思う。
考えれば考えるほど、混迷の泥濘の中に嵌まり込んでいってしまいそうだ。
「…………とりあえず、寝るか」
士郎は重い体を引きずるように立ち上がり、土蔵の扉に向かった。
床の上に描かれた、半分消えかかった魔法陣が微かに光を発したのはほんの一瞬の出来事だったので、士郎は背を向けていたこともあり、それに気付かなかった。
部屋に戻り、布団を敷いて、士郎は魔術の失敗で疲労した体を休めるために横になった。そうすると、睡魔はあっという間に彼の全身を支配して、士郎は目を閉じたとほぼ同時に眠りについた。
そして、夢を見る。
10年前の火災の記憶を夢に見たのは久しぶりで、普段は何故だか剣の夢ばかりだった。別に、剣の輝きが好きだなどと、傍目には危ない性癖は持っていないはずなのだが。ともあれ、いつもぼんやりと、脳裏に姿を霞ませるのは西洋風の直剣である。黄金色の。
この日はそれが、違った。
映像として現れたのは――刀、だった。
刀といっても日本刀ではなく、
その姿は、士郎に恐ろしく強い印象を残した。
何かの予兆めいて。
翌朝は、きちんといつも通りの時間に、士郎は目を覚ました。昨日の朝は、土蔵で壊れたストーブを修理しているうちに寝入ってしまい、桜に起こされるという失態を犯したが、今日は大丈夫だ。
時刻は5時半。冬木の冬が、名前の由来となったように長い割にはさほど寒くないとはいえ、日が昇らないうちの暗がりの中では、さすがに冷気も厳しい。それでもさっさと起き上がり、布団を片付けて着替える。
慣れたもので、手際よく朝食の準備を終えると、士郎は道場に向かった。昨今の日本の住宅事情を鑑みるに、ただでさえ敷地面積の広い衛宮邸は、母屋だけでなく離れもあり、庭には土蔵に道場、と、非常に贅沢過ぎる施設を持っている。
切嗣が生きていた頃は、魔術師は体が資本だ、とばかりに一方的にしてやられてばかりだったこの道場は、今では単に運動場としての機能しか果たしていない。
それでも、とにかく士郎には鍛錬あるのみ、だった。
誰かを助けるためには、強くなければいけない。身も心も。道場の清廉な空気に触れると、夕べの迷いも洗い流されるような気がする。
今日は土曜日。穂群原学園は週休二日制ではないので、半日授業がある。
一通りのトレーニングをこなして母屋に戻ると、いつものように桜の顔があった。
「おはようございます、先輩。もう朝ごはんの準備、出来てるんですね」
「おはよう、桜。後は仕上げだけだから、座って待っててくれ」
「いえ、お手伝いさせてください。……あら?」
ふとそこで、桜が何かに気付いて、士郎の手元に目を落とした。
「先輩、怪我を……」
「ん、あれ、ほんとだ。何だろ」
見ると、左手の甲に確かに血が滲んでいた。袖をまくってみると、肩から蚯蚓腫れのような傷が走っていて、そこから出血していた。そういや、何か変な痣みたいなのが出来てたっけ、と士郎は同時にあどけない少女の声を思い出した。
『早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん』
いや、気のせいだ。関係ない。案じる気配の桜を宥めるように、士郎はティッシュで血を拭った。
「まあ、痛みも無いし、平気平気。桜に心配してもらうようなことじゃないって」
「……はい、先輩がそう言うんでしたら」
桜は続けて小声で何か、まさか、とか、そんな、とか呟いていたようだが、士郎にはよく聞き取れなかった。
「おっはよー!! この匂い、今日の朝ごはんは士郎担当ね!」
そこへ、常から元気が有り余っているとしか思えない藤村大河が来襲――もとい、やってきた。
いつもの朝。この日で終わる、平和ないつもの朝。
「……何だ?」
朝錬に行く桜や大河を先に送り出し、普段通りの時間に家を出た士郎は、やたら行き交うパトカーの姿に首を傾げた。それにしても事件が多いよなあここ最近、などとと思いながら学校に着く。
途端。
「……!?」
奇妙な違和感が、全身に襲いかかって来る。
空気が、変だった。淀んでいるというか、粘つくというか。単に気のせいだろうと言われてしまったらそうなのかもしれないが、瞼を閉じれば、真新しいはずの校舎が何だか薄汚れて見えるし、校庭にいる生徒の姿も精彩を欠いているように感じられた。
(目に見える異変じゃないってことは、何か……ひょっとしたら魔術的なものなのか、これ?)
「あら、おはよう衛宮くん。具合でも悪いの? 顔色が良くないわよ」
不意に掛けられた声に、士郎は驚いてそれが発せられた方向に顔を向けた。
そこに立っていたのは、少なくとも士郎の友人関係の中に存在する人物ではなかった。
2年A組、遠坂凛。
容姿端麗、頭脳明晰、品行方正、と彼女を表す四字熟語はとかく褒め言葉しかない。そんな凛に憧れる男子生徒は数多く、士郎もその1人だった。それは高嶺の花を遠くから綺麗だなあと眺めるようなもので、実際に交際を申し込むとか、そういう類の憧れではなかったが。
なので、まさかそんな遠坂凛から自分が声を掛けられるとは思いもよらず、士郎は目を白黒させる。
「いや、ちょっと疲れてるだけだ。……遠坂こそ、確か昨日は休みだったろ。具合はもういいのか」
とりあえず士郎は、側から見て気分が悪そうに見えたということを、大いに反省した。本当に未熟だ、恐らくは魔術的なものと推察される現象に触れたからって、うかつに動揺を表に出すなんて。そして、返す言葉を何とか思いついた。
その士郎の返答に、今度は凛が目を瞠る。だが、それはごく僅かの間のことだった。
「ええ、ちょっと貧血気味だっただけだから。もう平気よ。心配してくれてありがとう」
にっこりと極上の笑顔を向けられた士郎は、顔に見る見るうちに朱が上っていくのが分かった。が、それを止めようとしても、男の本能としてどうしようもない。何せ、遠坂凛は本当に美少女なのだから。
「じゃあね、衛宮くんもお大事に」
黒く長い髪をふわりとなびかせて、凛は校舎へと歩き去って行く。
(そういえば、おはようの挨拶返すの忘れてたな)
などと思いながら、何となくその後姿をぼんやりと眺めていた士郎は、
「何だ、衛宮。何時の間に遠坂と仲良くなったんだ?」
「うぉわっ!?」
唐突に聞こえた声に、不覚にも思わず飛び上がってしまった。
「い、一成、驚かすなよ!」
「ふむ、俺の気配にも気付かぬほど、あの遠坂に見とれていたか……。嘆かわしい、お前まで誑かされるとは、真に嘆かわしいぞ、喝!」
生徒会長であり、士郎にとって親しい友人である柳洞一成は大袈裟にお祓いの仕草をして見せた。その行動の通り、一成は深山町の円蔵山、通称「お山」にある柳洞寺の息子である。
「誑かされたって……。ちょっと立ち話しただけで、何でそうなるんだよ。いや、それより、その言い方じゃ遠坂が悪いヤツみたいじゃないか」
「うむ、アレは女狐だ。妖怪狐狸の類だ。うかつに近づくと、衛宮も頭から取って食われる羽目になるぞ。気をつけたほうがいい」
酷い言い様だなあ、と、一成と並んで教室に向かいながら訊いてみた。一成は、はっきり言って美男子なのだが、常人には少々理解し難い独特の言動に加えて、実は結構人見知りすることもあって、友人は多くはない。士郎はその多くない友人の1人であるが、一成がここまで他人を悪く言うのを初めて聞いたからだ。
「……一成は、遠坂が嫌いなのか? 遠坂の悪い噂なんか聞かないけど」
「そうだ、悪い噂など聞かん。俺はそれが気に食わんのだ。まあ、これはあくまでも柳洞一成個人の主観であり、一般的な見解と異なるのは承知している。出来たら、衛宮にもこの見解を同じくしてもらいたいが――無理強いはせん」
好きだとか嫌いだとか、そういう踏み込んだ感情を抱けるほど、士郎は遠坂凛のことを知らないが、どうやら彼女は意外に敵が多いというので、一成もきっとその1人なのだろう、という風に理解しておくことにした。大体、士郎には基本的に彼女と接点が無いのだから。
「そういえば、衛宮」
不意に、一成が思い出した、という風に話題を変えた。
「2丁目の交差点の辺りに、パトカーがたくさん止まっていたのを見ただろう」
「ああ、あれな……。何だったんだ、知ってるのか?」
「うちにも警察が事情聴取が来てな。殺人事件だそうだ」
「!!」
靴を上履きに履き替えながら、一成の言葉に士郎は息を呑んだ。
「夜中のうちに一家4人のうち、両親と姉が殺され、幼い息子1人だけが助かった、と。しかも、奇妙なことに凶器は槍や日本刀の――所謂、長物の類だった」
1人だけ、助かった。
1人だけ。
……皆死んでしまったのに、1人だけ……。
「それで、その犯人、捕まったのか」
「いや、皆目犯人の見当が付かないらしい。となると、物騒な殺人犯がこの街に潜んでいることになるが……。これでは門限が早まるのも無理はない、……っと」
そこで一成が口ごもったので、士郎は一成を見た。生徒会長は、端正な顔立ちを少し気遣わしげに曇らせていた。
「? どうした」
「すまん、朝っぱらから愉快な話題ではなかったな。随分、厳しい顔をしているぞ、衛宮」
「そ、そうか?」
士郎は、すのこの上に置いていた鞄を改めて手に取り、訳の分からない不安めいた感情を無理矢理押し込んで、ぎこちなく笑った。
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