「ただいま」
衛宮家には、灯りがついている。玄関には、女物の靴が二足。桜も大河も、士郎より早く「帰って」きていた。士郎がほぼ家族も同然と認める2人は、衛宮邸の鍵を持っているのだ。食欲を大層刺激する、実にいい香りが漂っている。
居間に入ると、食事を摂っていた桜が振り向いた。大河は、実に幸せそうに皿の上の料理をぱくついている。今夜のメインに鎮座ましましているのは、鶏のクリーム煮。桜の得意料理であり、大河の好物だった。
「お帰りなさい、先輩。お先にいただいてます。30分前くらいまで待ってたんですけど……」
「ああ、うん、ちょっと遅くなったしな、ごめん」
「ちょっとじゃないでしょー。早く帰りなさいって、ホームルームでも言ったのに、何で士郎は言うこと聞かないかな!」
てっきり桜の料理に夢中で、家主(一応)の帰宅を完全無視かと思っていた大河が、がばと士郎に向き直った。こっそりと部屋に戻って制服を着替えてこようかと目論んでいた士郎は、完全に当てが外れて僅かに首を竦める。
「いやほら、一成の頼みごとでさ。思ったより時間かかっちまって」
「言い訳無用! 大体、昨日のバイトで遅くなったのだって、どうせ人の仕事まで請け負っちゃったからでしょ? もう、本当に人が好すぎるったら」
ずびし、とばかりに指を突きつけられた士郎が苦笑するのみで反論しないのは、それが概ね事実だからだ。
衛宮士郎の生き甲斐は、人助けである。頼まれごとをされると、自分に出来る範囲のことなら嫌とは言わない。言えないのではない。言わないのだ。しかも、見返りを一切求めない。それを偽善だと言う人間もいる。だが、仮に自分の行為が偽善だとして、それで助かる人がいるのなら何が悪いというのだろう。
「藤村先生、先輩も帰ってきたばかりですから。お話は、ご飯を食べながらでもしましょう。ね?」
「うむむ、桜ちゃんにそう言われてしまっては仕方が無い。桜ちゃん、おかわり!」
「はい。先輩、先輩の分、温めておきますね」
「サンキュな、桜。ついでに藤ねえが俺の分まで横取りしないよう、見張っててくれ」
「了解です。任せてください」
「ぬー、そんな心配するくらいなら、早く帰ってくればいいじゃないよー」
桜の助け舟にこれ幸いと便乗して、士郎は自分の部屋に戻った。
鞄を置き、穂群原学園の生徒である証の制服を脱いでハンガーに掛けて吊るし、私服に着替える。
士郎の私室には、殺風景なほどに何も無い。文机と小さな本棚くらいしか、住人の生活の息吹を伝えるものは置いていない。というのも、この部屋は士郎にとって“第二の部屋”であり、メインで使う空間ではないからだ。
彼の“第一の部屋”とは、庭にある土蔵である。切嗣が存命の頃から、がらくた弄りが好きな士郎は、雑多にものがたくさん置いてあるこの場所をひどく気に入っていた。だから、養父に、あまりここに出入りしては駄目だよと禁じられても、秘密基地気分でこっそりと侵入することを繰り返してきた。士郎が衛宮家の主人となった今では、土蔵はすっかり士郎カスタマイズされて、寝泊りも不自由なく出来るようになっている。そして、土蔵は現在の士郎にとって、もう一つの重要な意味を持つようになった。
士郎が手を洗って再び居間に赴くと、彼の定位置にほかほかと湯気を立てる夕食が用意されていた。
「いただきます」
「はい、どうぞ。お口に合えばいいんですけど……」
手を合わせて簡単な食前の儀式を済ませると、士郎は早速料理に箸をつけてもぐもぐと咀嚼する。何だかんだいって、若い健康な肉体は食事を要求していたのだ。
「これ美味いな、桜。また腕上げたな」
士郎が本心からの賛辞を口にすると、桜は本当に嬉しそうに微笑む。
「本当ですか、先輩。免許皆伝ですか?」
「ああ。まだ和食では負けないつもりだけど、洋食はもう、桜の勝ちだ」
「じゃあ、和食でも、そのうち先輩の腕を追い抜いてみせますから!」
「む。師匠としては、弟子にそう追い越されるのは困る。俺だって負けないぞ」
むん、と気合を入れる桜に対して、士郎は半ば以上本気で挑戦を受ける心持だった。
桜に料理を教えた士郎としては、「弟子」の目覚しい成長ぶりは実に喜ばしいことなのだが、意外に彼は負けず嫌いなところがあったりするのだ。
「で、しーろーうー。まださっきのお話は終わってないのよー」
そこへ、多少恨めしさを含んだ声が発せられる。絶え間なく食事を続けながらも、大河はそれはそれ、これはこれといった態度で士郎に「教育的指導」を行うつもりのようである。
「言い訳は聞かないんじゃなかったのかよ」
「あ、開き直ったな」
「どうせ俺はお人よしですよ。けど、自分が出来ることで誰かが助かるなら、別にいいじゃんか」
「士郎の場合、その範囲が広すぎるの! んもう、切嗣さんにそーゆートコは似たのかなあ」
はあ、と溜息をつく大河。
「どーせ、まだあの夢、そのまんまなんでしょ?」
「悪いか?」
「先輩の夢、ですか?」
桜が興味深そうに士郎と大河を交互に見る。士郎が「おい! 藤ねえ、余計なこと言うなって!」と大河を止めようとするが、にんまりと笑った、剣道五段の猛者である通称「冬木の虎」は、弟分の制止などものともしなかった。
「うん、士郎ったらね、小学生の時の作文に『僕の夢は正義の味方になることです』なんて書いたんだから」
「正義の味方……わあ、凄いですね、先輩」
所謂一般的にいう、「子供の心を忘れない男の人って素敵」という眼差しを、桜は士郎に向ける。心密かに抱き続ける理想を暴露された士郎は、それがいささか声を大にして言えるものではないと分かっているだけに、ややむくれた風に黙って食事を続行することにした。
「子供が言うなら微笑ましいわよ。けど、士郎の場合、まだ諦めてないんだから。切嗣さんに士郎を任されたお姉さんとしては、士郎がムチャをしないか心配なのよ」
『……子供の頃、僕は正義の味方に憧れていた』
頻繁に家を空けていた切嗣が、あまり出歩かなくなっていたある冬の日。皓々と冴えた月が光を降らせる夜だった。士郎と並んで縁側に座り月を見上げながら、切嗣はぽつりとそう言った。士郎に言って聞かせるというよりは、あまりに静かな、独り言めいた声音だった。
『なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ』
士郎にとって、衛宮切嗣という人は完全無欠の英雄だった。だから、そのヒーローが弱音めいた言葉を零すのが、幼い士郎には納得いかなかった。
問い質す士郎に、切嗣は淡く笑った。
『うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気付けばよかった』
じっと、士郎は切嗣を見上げた。
まだ幼い士郎にも、切嗣がここ最近、著しく精彩を欠いている様子であるのは分かっていた。今にして思えば、あれはきっと、己の死がごく間近に控えていることを知った人間が、それをあるがままに受け入れて、来るべき時を待っていた静けさだったのだろう。
『そっか、それじゃしょうがないな』
切嗣の返答に暫く考え込んだ士郎は、確かにテレビなんかによく出てくる正義のヒーローと比較したら、確かに切嗣は少し年がいってるかもしれない、などと、結構失礼な納得の仕方をした。何せ、切嗣を士郎は「爺さん」と呼んでいた。年齢的には、切嗣は士郎にとっては父親と兄の中間くらいのものだったが、士郎が血の繋がらない養父を「父さん」と呼ぶのが何だか気恥ずかしかったのと、他でもない切嗣本人の、年齢にそぐわない何処か枯れた雰囲気のせいだった。
『そうだね。本当に、しょうがない』
『うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ』
切嗣は、士郎に己が辿ってきた道を語ったことは一切無かった。けれど、士郎は何も知らず、切嗣と同じ道を歩むことを何の気負いも無く誓った。切嗣は軽く目を瞠る。
『爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。任せろって、爺さんの夢は俺が必ずカタチにしてやるから』
正義の味方になる。この瞬間に、衛宮士郎は、この先の自分の進む道を心から決定したのだった。
『そうか。ああ――安心した』
士郎の宣誓に対して、今まで見せたことのない無垢な顔で切嗣は笑った。
そして――衛宮切嗣は、本当に
誓ったんだ。あの時。正義の味方になる、って。
勿論今はもう、あの時ほど子供じゃないから、「正義の味方」が子供が夢見るほどに簡単なものじゃないことは分かっている。いや、世の中ってものが分かってくるにつれて、それが絵空事に近い存在だってのが嫌でも理解できてくる。きっと、切嗣もそうやって正義の味方を諦めたのかもしれない。
けど、俺は理想なんて所詮は綺麗事だ、なんて簡単に賢しげに摩り替えたくはない。
だって、俺は覚えている。俺を助けてくれた切嗣の泣き笑いの顔、落とされた切嗣の涙の暖かさ、俺の手を握り締めた切嗣の手の大きさ。死を目前にした俺を、救ってくれた切嗣。誰が何と言おうと、切嗣は俺の
あんな風に切嗣みたいに、誰かを助けたいんだ。俺の全てをかけても。
しかしまあ、とはいうものの最大にしてそもそもの問題点は、そのスタートラインにすら立てていないことなんだが……。
あらぬ所に士郎が意識を飛ばしていたのに気付いたのかいないのか、大河は念を押す。
「士郎、とにかく門限は守らなきゃ駄目なのよ。危ない目に遭ってからじゃ遅いんだからねっ」
「はいはい、もう少し早く帰れるように、鋭意努力はいたします」
「誠意が感じられない! あーあ、昔の士郎はもっと素直で可愛かったのに。切嗣さんが無精だったから、家事も一生懸命やってたし。何でこんなに捻くれちゃったかなー」
ぼやきながらも、ぱくぱくと大河は食事を平らげていく。器用である。
高校生男子がいつまでも子供みたいに可愛らしかったら、それはそれで大変気持ち悪いのではないだろうか、と士郎は思ったが、口には出さなかった。藪蛇になりそうな気がしたからだ。お姉ちゃんにとっては弟は何時までも可愛いもんなのだとか何とか。その代わり、別のことを口にした。
「藤ねえ、
士郎のその反撃は、どうやら大河にクリティカルヒットしたようだった。擬音で表現するなら、ががーん、という感じである。そのまま固まった。
「……あの、先生。大丈夫、ですか?」
桜が心配そうに声をかける。
「うう、お姉ちゃんはこんなに心配してるのに、士郎ったらこの反応! 切ないよぅ! 桜ちゃんおかわり!!」
「あ、は、はい」
ご飯茶碗ではなくマイご飯丼をずずいと差し出す穂群原学園英語教師、藤村大河25歳独身。居候、三杯めはそっと出し、とはいうが、居候ではなく、
小さな波乱はいつものこと、概ねつつがなく夕食は終わった。鍋や食器の洗い物も済ませ、ひとしきり寛いでから、桜が、
「じゃあ、先輩。わたし、そろそろ帰りますね」
と、士郎に声をかけてきた。時計を見ると、9時を僅かに回った頃だった。
「桜、送ってくよ」
帰宅の言葉を受けて、士郎は、よっと反動をつけて立ち上がる。
「え、そんな、大丈夫です、わたし。ちゃんと1人で帰れますから! そんなお気遣い無く!」
桜と一緒に玄関に向かおうとした士郎を、桜は目を丸くし、次いでいやに慌てて押し留める。
「最近物騒だろ。女の子の桜なら尚更だ。桜の家、結構うちから遠いし、それこそ藤ねえも言ってたろ。何かあってからじゃ遅いじゃないか」
「いえ、お気持ちは嬉しいですけど、本当に大丈夫なんです。だから、先輩はゆっくり休んでてください」
「なんでさ。俺が桜を送っていったら、まずいことでもあるのか」
頑なに申し出を拒む桜に、士郎は怪訝そうに訊ねる。桜は図星を突かれたように、少し顔を俯かせた。それから、躊躇いがちに口を開いた。
「だって……先輩、あの、兄さんに見つかったら、またケンカになるかもしれませんから。先輩に迷惑をおかけしちゃうことに……」
「ああ……そっか、桜は一応、藤ねえん所に行ってるコトになってるんだっけ」
「はい、ですから……」
「いいって。仮に慎二とケンカになったって、俺には別に迷惑じゃない。それより、桜を1人で帰す方が心配だ」
桜の兄、間桐慎二は、士郎とは親しい友人、という間柄になるだろう。だが、慎二には妹に対して暴力を振るうなど結構な暴君の一面があるらしい。桜が、明らかに暴行を受けた後であろう傷を負った、そのことを巡って、どうしても許せなかった士郎は慎二と殴り合いに到るまでのケンカをしたことがあり、最近は友人といっても少し疎遠になっている。それで2人の仲がこれ以上変にこじれることを、桜は案じたのだろう。
「大丈夫だって。男同士でケンカすることなんて、別に珍しいことじゃないんだし。それに、ここで押し問答してたら、余計に遅くなっちまう。ますます、1人で帰るのが危なくなるぞ?」
「……先輩。その言い方ずるいです」
「だったら、行くぞ、さあ。慎二に見つかったら見つかったでいい。変に隠し事するよりは、お互いその方がすっきりするだろ」
士郎がそう言って半ば強引に廊下の方へと促すと、桜は諦めたのかそれ以上の抗弁をすることなく、ほっと表情を緩めた。
「……先輩と兄さんって、やっぱり仲がいいんですね」
「? そうか?」
「ええ、そう思います。――それじゃ先輩、お言葉に甘えさせてもらっていいですか」
「おう、任せとけ。こう見えても俺、結構鍛えてるんだから、絶対に桜を危ない目になんか遭わせないからな」
どん、と士郎は自分の胸を叩いてみせる。自分の学生鞄を手に取った桜は、ただ絶対の信頼に満ちた声で、「はい」と頷いた。
深山町は、士郎の家のある和風の建物が並ぶ区画と、洋風建築が並ぶ区画に大きく分かれている。桜の家である間桐邸は、洋風建築の区画にある。冬木市を
他愛もないお喋りなどしながら、士郎と桜は間桐邸に向かっていたのだが。
「……あ……」
桜が突然足を止めた。士郎も、桜の足を止めさせた存在に気付いて、立ち止まった。
――その男を一目見たら、誰しも一瞬でその顔つきを忘れられなくなるだろう。
恐ろしいまでに端正で豪奢な美貌。光そのものを集めたような金の髪。滴る鮮血を思わせる、真紅の双眸。ただそこに「在る」だけで他者を威圧し、圧倒的なほどの存在感を誇る男は、ただの散歩途中という風に無造作に歩いていたが。
立ち尽くす2人に向かってくるや、桜に一瞥をくれると、口元に不可解な笑みを浮かべてそのまま歩き去っていった。
「……何だあいつ」
男の笑い方に気に食わないものを感じた士郎は、むっとした声音を露にした。
「あの人、最近、近所でよく見るんです。ここのところ、引っ越してきた人なんていないから、変だなあとは思うんですけど……」
その笑いを向けられた、肝心の桜はといえば、微かに頬を染めたりしていた。
「でも、モデルさんみたいにカッコイイ人ですよね」
「……」
甚だリアクションに困る士郎だった。
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