何を言われてもせめてたじろがないようにと、士郎は足元に意識して力を入れた。両の拳を握りしめ、ぎっと奥歯を噛み締める。
そんな士郎をいかにも面白そうに見やり、口の端に例の、不安を煽る微かな笑みを浮かべたままで、言峰は言った。
「君が巻き込まれたこの戦いを、『聖杯戦争』といい、7人のマスターと呼ばれる魔術師が、7騎のサーヴァントという使い魔を使役して、賞品である聖杯を求めて繰り広げられる生存競争――ということは、もう凛から聞いただろうが」
「……聞いた。その7人全員で互いに殺し合うっていう、馬鹿馬鹿しい話だろ」
そんなふざけた“儀式”を必要としてまで、他のマスター達はその聖杯とやらが欲しいのだろうか。他の誰かを踏みにじり、命を犠牲にしてまで、そこまでしてでも叶えたい願いがあると? 士郎には一切理解出来ないし、また、したくもない。何が生存競争だ、そんなの聞こえが悪くないように言い換えてるだけで、実際はただの殺し合いじゃないか、と、その仕組みの非道さに憤りすら感じる。
今、俺の隣に立っている、この遠坂もやっぱり聖杯が欲しいのか? 士郎は、ちらりと凛を見た。凛は、特に表情を動かさずに正面を向いている。確かに、彼女は魔術師は殺し殺される者、と自ら言い、その覚悟も実際にあるようだが、この聖杯戦争というシステムを一切疑問に思わないのだろうか。戦争、だからなのか?
――遠坂が、誰かを殺したり、……誰かに殺されたりするのなんか見たくない。
握られた士郎の両手に力がこもる。
もっとも、神父でありながら代行者を職務とするこの神父は、生命のやり取りを行わねばならない聖杯戦争のその仕組みにも、まるきり嫌悪感を催している様子は無い。ごく当たり前のように、語を継ぐ。
「そうだ。だが、我々とて、何も喜んでそのような方法を選んでいるわけではない」
苛立ちに似た感情が、士郎の中に膨れ上がる。だったら、こんなくだらないこと、止めてしまえばいいじゃないか。
「……全ては、聖杯を得るための試練だ」
士郎の内心を見透かしたかのように諭す声音で、厳かに言峰は言う。傍目には、神の教えを説く聖職者そのものの態度だが、一度、胡散臭く感じてしまったら、全てが信用できない。大体、試練なんて便利な単語で全てが納得できるわけがない。そもそも、こいつ自身が絶対に聖杯戦争のことを試練だなんて信じてないだろうと、士郎は果てしなく確信に近く思った。それこそ、凛の兄弟子として魔術を修めたとはいえ、本来は聖堂教会に所属する人間が、魔術師同士が殺し合おうが何だろうが、知ったことではないに違いない。
ただ、聖杯、という教会側としても見過ごすことの出来ない秘宝の行く末がかかっているから、宿敵である魔術協会に手を貸しているだけなのだろう。
「何せ、ものは聖杯だ。所有者の選定には、いくつかの試練が必要になる。その者が、聖杯に相応しいかどうかという、な」
「――ちょっと待てよ。さっきから、簡単に聖杯がどうのって言ってるけど、それって、本物の聖杯のことなのか」
士郎は、凛からは答えを得られなかった疑問をぶつけた。
聖杯探求の冒険が昔から数多くの物語の題材にされてきたように、聖杯とは病気治癒や富をもたらす奇跡を起こす器物である。イエス・キリストと弟子達の最後の晩餐に使われたという、キリスト教での聖遺物としての聖杯が最も有名だが、例えばケルト神話における豊穣の神ダグダが持つ「食べ物が無限に出てくる魔法の大釜」、フィンランド神話の中で語られる「持つ者に幸福をもたらす人工物サンポ」など、似たような伝承は世界各地にある。現代における一般的な聖杯のイメージとは、それらの伝説の類が収束されたものだといえよう。
だが、到底、そんなものが実在するとは士郎には思えない。伝説に登場し、なおかつ現在でもその所在が確認できるもの、があるだろうか?
答えは否。仮にかつてはあったにせよ、今では聖杯など架空の、想像上のものに等しい。そもそも、冬木市というこんな極東の地・日本の、しかもただの一地方都市にかの伝説の聖杯があるのだと、そうそう信じられるものではない。
しかし、言峰は至極あっさりと答えた。
「聖杯の真贋など問うたところで意味が無い。実際にこの冬木には聖杯と呼ばれるものが存在し、――そう、もう既に英霊をサーヴァントとして召喚する、などという奇跡を起こしているではないか」
そう言われると、士郎も反論のしようがない。
士郎に召喚されたというアーチャーが、何時の時代、何処で活躍した英雄かは分からないが、土蔵の床の上に描かれていた魔法陣から出現した彼が少なくとも尋常の存在でないことは、士郎にも分かっている。そもそも、士郎が一度「殺された」原因となったのも、セイバーとランサーが人智を越えた戦いを繰り広げているのを目撃してしまったからだ。
アーチャーは、ランサーのことを「
「過去に存在した、歴史伝承に名を残す各国の英雄の魂そのものを呼び出して、使い魔にする。死者の蘇生にも等しい……いや、それどころか神話伝説に名高い英雄本人をこの現代に召喚する、これが奇跡でなくて何だという? その真偽を疑ったところで、この歴然たる事実の前にそんなものは無価値だ。そうではないか、衛宮士郎」
つまりは、聖杯と呼ばれるものが実際は何であろうが、そう呼ばれて奇跡を起こす力さえあれば構わない。そう、およそ神父らしからぬことを言峰は言っている。
賞品は実際にある。だから、それを奪い合う戦いにお前も参加しろと。それこそが、担い手を求める聖杯の意思に選ばれたお前の運命だと。
目眩がしそうだ。何で、そんなことを勝手に決められなければならないのだろう。士郎にしてみれば、聖杯にかける願いなどないのに、一方的にお前は選ばれたなど言われても、迷惑千万だ。ましてや、そのために殺し合いまでするとか、あり得ないにもほどがある。
「……本当に奇跡を起こす聖杯があるっていうんなら、何も争わなくても皆で分け合えば良いだろう。それこそ奇跡なんだから。何で、殺し合って奪い合わなきゃならないんだ」
あくまでも士郎は反論する。
「誰も彼もが、奇跡を分け合うことに合意すると思うか? それに、聖杯が奇跡の恩恵を与えるのは唯一人。そう、聖杯自体が決めたのだ。我々にはどうしようもない」
言峰が、含みのある笑いを僅かに深くする。
「7人のマスターを選び出すのは聖杯の意思、7人のサーヴァントを招き寄せるのも聖杯の意思。これは儀式だ、と言っただろう。聖杯は、自らを求め、そして有するに相応しい候補者を選び出して令呪という聖痕を与えて、互いに覇を競わせ唯一人の最後の勝者を持ち主と決める。それが聖杯戦争という儀式、というわけだ」
士郎は思わず、自分の左手の甲を、反対側の右手で押さえた。
三画で刻まれた、赤い紋様――令呪。マスターが聖杯に選ばれしマスターであるという証の聖痕、サーヴァントに対する絶対命令を三度だけ可能とする呪法の刻印。
7人のマスターと7騎のサーヴァントを必要とし、互いに相争わせるのも、最後の覇者にその奇跡の力を与えるというのも、全ては聖杯の意思。
このまま、洪水に押し流されるようにして、訳の分からない、そんな『聖杯の意思』とやらに従って殺し合いに参加するなんて、絶対に納得できない。誰もが幸せであって欲しい、けれど、誰かを救うために誰かを犠牲にすることなんかあっちゃ駄目だ、そう考える士郎にとっては、聖杯を得るためだけに最後の勝者一人を残すまで魔術師同士で血で血を洗う抗争を繰り広げる聖杯戦争の存在とは正反対、対極に位置している。その中に飛び込むなどと、士郎にとっては決して肯定できることではなかった。
この令呪がある限り、士郎がマスターである責務からは逃れられないというが、望んでもいないのに勝手に押しつけておいて、と憤りすら湧いてくる。
「……聖杯が実際にあって、一人しか持ち主に選ばれないというのは、とりあえず分かった。けど、だからって、他のマスターを殺さなくちゃならないってのは、気に食わない決まりごとだ。俺はそんなのに参加するなんて、絶対に嫌だ」
改めて強く、士郎は聖杯戦争への拒絶の意を示した。すると、それまで士郎の隣で沈黙を保っていた凛が口を挟んで、なだめるように軽く肩を叩いてきた。
「――ねえ、衛宮くん。それも勘違いしてるようだけど、別にマスターを必ず殺さなけりゃいけないって決まりはないのよ」
意外すぎる、助け船にも似た凛の言葉に、士郎は目を瞬かせる。
「? だって、お前も最初に聖杯戦争は殺し合いだって言ったじゃないか。その神父だって」
士郎が怪訝そうに凛に向かって発言の矛盾を突くと、言峰は実に簡潔に言い切った。
「殺し合いだ」
「綺礼は黙ってて」
兄弟子を一睨みして、凛は士郎に言い聞かせる口調で説明した。
「あのね、この町に現れる聖杯っていうのは、霊体なの。分かりやすい――それこそ、必ずしも名前の通りの杯みたいな形として存在するんじゃなくて、特別な儀式で呼び出して、降霊させるものなのよ。それで、呼び出すこと自体は、わたしたち魔術師だけで出来るんだけど、霊体である以上、生身であるわたしたちでは触れられない。だから……分かるでしょ?」
「――ああ、そうか。霊体には霊体でしか触れないから、サーヴァントが必要なんだな」
士郎が納得すると、凛は頷いてみせた。
「そういうこと。要は、聖杯戦争っていうのは、自分のサーヴァント以外のサーヴァントを排除するっていうことよ。だから、広義の意味では確かに殺し合いになるけど、必ずしも他のマスターを殺す必要はないの」
「何だ、……そうなのか……。それならそうと……」
最初からそう言ってくれればいいのにと、拍子抜けした思いで、士郎は肩から力を抜いた。それで、随分と自分の身体と表情が強ばっていたことに気付いた。
(あんだけ散々、殺すの殺さないのって俺を脅かしておいて、全く遠坂も人が悪い……。でも、……遠坂が死んだりは、しないで済むんだ、な……)
ほっと息を吐く。
憧れの美少女優等生という偶像を、士郎から粉微塵に砕け散らした遠坂凛は、どうも人をからかって遊ぶ悪癖があるようだった。人が目を白黒させて右往左往するのを楽しむなんて、とは思わないでもないが、そういう時の凛は非常に生き生きしていて、かぶっていると分からない完璧なる猫かぶり状態よりもよほど魅力的に見えるから、実に始末に困る。
凛は、士郎と違い、聖杯戦争に参加することに迷いなど一切なく、むしろ待ち望んでいた。だが、彼女自身にいくら覚悟があるといえど、実際にその死など見たくないと思うのは、人情としても単なる私情としても当たり前だろう。
そういえば、この目の前の言峰綺礼も、以前にマスターとして聖杯戦争に参加した、と凛は言っていた。それでもなお、神父は生きてここにいるんだからそれもそうか、と思い返すほどの冷静さが、士郎にも戻ってきた。
しかし、そこへ、士郎の安堵に水を差す声がした。
「なるほど、そういう考え方もあるか」
興味深そうな面持ちで士郎と凛のやり取りを見ていた言峰が、おもむろに口を開く。
「では訊くが、衛宮士郎。君は、自分のサーヴァントを倒せると思うか」
「アーチャーを?」
白黒の双刀をもってして、士郎では手も足も出なかったランサーを相手に、互角に剣技を振るったアーチャーの姿を思い浮かべる。また、ぶつぶつ文句を言いながらではあるが、治癒の魔術すら使いこなして、士郎の傷を癒やしてくれた。何かと士郎をあげつらっては嫌味ばかり言ってくるあのアーチャーを自分のサーヴァント、というのには抵抗があるが、一応、向こうがマスターと呼ぶからには、客観的には主従関係、といってもいいのだろう。
アーチャーとの相性の是非はともかくとして、考えるまでもない。士郎がアーチャー相手に勝負を挑んだところで、歯が立つわけがないのに、倒すなど問題外だ。
「出来るわけがないだろ、そんなこと」
「そうか、ならもう一つ。君は自分がサーヴァントより優れていると思えるか?」
士郎は、露骨に何を言っているんだ、という表情をする。
同じような質問を重ねて問うたところで、サーヴァントを倒すことなど出来ない結論には変わりがないのに、自分がサーヴァントより優れているわけが――。
「……あ」
士郎の口から、小さな声が零れる。
気付いてしまった。いや、気付かされてしまった。
言峰が、何を言いたいのかを。
「そういうことだ。サーヴァントが名高い英雄である以上、サーヴァントをもってしてもサーヴァントを倒すのは容易な話ではない。――そうなると、だ。マスターからの魔力供給によって現界しているサーヴァントを消滅させようとするのに、最も簡単な方法といえば」
それ以上は皆まで言われずとも分かる。
凛が、「他のマスターが殺しに来る」と言ったのは、脅しなどではなく、士郎が左手に令呪を刻むマスターである限り、立場を同じくするマスター達にとっては倒すべき敵であるからだ。効率よく、確実に聖杯戦争に勝利するために。
だから、殺されたくなくば、戦え。そんな風に挑発されていると感じるのは、果たして士郎の気のせいだろうか?
「……サーヴァントを排除しようとすれば、マスターを倒す方が早い。それは分かった。だったら、逆はどうなるんだ? サーヴァントが倒されて消えたら、残ったマスターはマスターじゃなくなるのか。聖杯にはサーヴァントしか触れられないんだから、サーヴァントのいないマスターなんて、意味がないだろう」
「いや、マスターとは、サーヴァントと契約できる魔術師のことを指す。サーヴァントを失ったマスターからは、聖杯によって令呪が回収されるが、一度、マスターとなった者は再びマスターとして選ばれる可能性が高い。マスターは、聖杯によって所有者の資格有り、と見込まれた人間だからな。そして再び令呪を宿せば、またそのマスターは新たなサーヴァントと契約できる」
そういう仕組みになっているのだと、言峰は言う。
「あるいは、サーヴァントがマスターを失う場合もある。マスターはマスターを狙い殺す以上、当然の事態だ。そうなったサーヴァントは、すぐさま現世から消滅するわけではない。彼らを構成している魔力が尽きるまでは、現界し続けることが出来る。そういった“マスターを失ったサーヴァント”が、“サーヴァントを失ったマスター”と出会えば、新たな主従が完成する、というわけだ。減らした筈の敵の数が元に戻る、だからこそ、それを避けるためにマスターは敵対する他のマスターを殺すのだ」
「じゃあ、もしも令呪を使い切ったら? そうしたらマスターはマスターとしての権利を失うし、自由になったサーヴァントも、他のマスターと契約できるだろ」
自分の、令呪が浮かび上がっている左手を突きつけるようにして、士郎は言った。
「衛宮くん、それは……」
士郎の発言に危険なものを感じたのか、凛が眉をひそめる。言峰は構わず鷹揚に、士郎の言を肯定してみせた。
「それは確かにその通りだな。令呪さえ使い切ってしまえば、マスターは聖杯に課せられた試練から解放される」
そう言って、言峰は小さく笑った。鼻で笑う調子に、それはよく似ていた。
「……もっとも、人間よりはるかに優れているサーヴァントを律するという、強力無比な呪法である令呪を無駄に消費する魔術師がいるとは思えないが。いるとすれば、その者は魔術師として何もわきまえていない、半人前どころか愚か者の類だ」
暗に、お前がそれだと言われているのは明らかだった。乗せられるな、とは思うが、やはり癪に障る。
何故、この男は、殊更にわざわざ煽り立ててくる言い方をするのか。士郎は、真意が全く読めない神父の顔を見据えた。
そこまでして、俺を聖杯戦争に参加させたいのか? だとしたら、一体何故。マスターが7人揃わないと、聖杯戦争が始められないから? けど、それには俺がマスターでなくちゃならない理由なんか無い。どうして俺が、聖杯の意思とやらに選ばれた。少なくとも、俺は聖杯なんか要らないし、殺し合いなんかもってのほかだ。なのに、参加なんか出来るわけがない。
「他に訊きたいことがないのなら、聖杯戦争のルールの説明はここまでだ。――さて、それでは始めに戻ろう、衛宮士郎。君はマスターになったつもりはないと言ったが、それは今も同じなのか」
士郎はすぐには答えない。だが、その態度には拒絶がありありと表れていた。無言の士郎に、言峰は重ねて言った。
「やはりまだマスターを放棄するというのなら、それも良かろう。君が今考えたとおり、令呪を3回全て使い切り、アーチャーとの契約を終わらせれば良い。その場合、君の身の安全は教会を代表して私が保証しよう」
「この教会でアンタに? なんでさ。そんなこと、必要無い」
咄嗟に、士郎は反発心から、まるで差し伸べられた手をはねのけるようにして拒否を口にした。
それでも気を悪くした様子もなく、言峰は後ろ手に組んだ手の上下を組み替えただけだった。
「先ほど言ったことをもう忘れたか。令呪を使い切ったところで、一度マスターになった者は、再度マスターに選ばれる可能性があると言っただろう。私は、繰り返される聖杯戦争の監督役として、犠牲を最小限にとどめねばならん義務がある。だから、マスターでなくなった魔術師を保護することは、教会にとって最優先事項なのだよ」
「……聖杯戦争って、これで何度目なんだ。繰り返されてるってアンタ言ったし、これだけルールが決められてるってことは、1回や2回じゃないんだろ」
どうやら、この語られるルールというのは、それまでの反省の上に成り立っているらしい。ということは、一体、こんな馬鹿げた戦いが何度行われて、どれだけの人間が命を落としているのか。犠牲を厭うということは、それだけの死者が今まで出ているということだろう。それでもなお、魔術師達は我が手に聖杯を求めて、聖杯戦争を行うというのか。
自分が、犠牲者の一人に数えられるかもしれないことも構わずに。
前回の聖杯戦争にマスターとして参加した、そして生き残った神父に、士郎は訊いた。
「5度目だ。最初の記録が約200年前、それから以後はほぼ60年周期で行われている。前回は10年前だったから、サイクルとしては最短だな。そして、この地で726番目に観測された聖杯を調査し、魔術師達による闘争を審判する。それが、監督役たる私の役目だ」
「5回目……って、もうこんなふざけたこと、4回も続けてきたのか、200年間も!? しかも、聖杯は726個もあるのか!」
聖杯戦争だけでなく、聖杯にも思いもよらぬ大きな数字が返ってたことに、驚愕する。なるほど、726個もあれば、真偽などさほど問題無くなるのかもしれない。
「少なくとも、聖杯、として現れた事象がそれだけ今まであったということだろう。そしてそれをめぐって、4度も争い続け――マスター達はその度に、欲望のために苛烈に無差別な殺し合いを行った」
一歩、言峰が士郎に近づいた。かつん、という靴音がやけに響いた。
「仮にも魔術師であるならば知っていようが、魔術師にとって魔術の秘匿というのは重要な原則だ。魔術師は、己が正体を一般に晒すものではないのだからな。だが、過去のマスター達はそれを破った。事態を
士郎は唇を噛む。話を聞けば聞くほど、ますます、聖杯戦争などは、あってはならない存在だとの意が強くなる。
「……監督役が必要なことは分かった。この聖杯戦争っていうのが、とんでもなくタチが悪いんだっていうことも、よく分かった」
「性質が悪いとは、どうしてそう思った」
「魔術師のルールを破るような連中が、本物かどうかはともかくとして、とにかく私利私欲で聖杯を手に入れてしまったら、何をするか分からないじゃないか。まずいだろう。魔術師を監視するのがアンタの仕事なら、そういうヤツを罰する必要があるんじゃないのか」
「私利私欲で動かぬ魔術師――いや、人間などおるまい」
さも可笑しい、と言わんばかりに言峰が笑い声を立てた。神父でありながら、人の利己欲を律しようともいないなんて、まさに凛の言うところのエセ神父、だ。
「我々が管理するのは、聖杯戦争のルールだけだ。その後のことは知らん。どのような人間が聖杯を手にしようと、それが本物の聖遺物でない限り、教会は関与しない」
「そんな馬鹿な! じゃあ、勝ち残ったマスターが人を殺しまくりでもする最悪のヤツだった場合、どうするんだよ!」
士郎が声を荒げるも、言峰は小面憎いほどに平然としている。
「それは困るな。だが、何度も言っているとおり、我々ではどうしようもない。全ては聖杯が決める、聖杯の意思だ。――しかし、それが許せないというのなら、簡単な話だ。君自身が勝ち残り、そういった輩に聖杯を渡さなければ良い」
困る、などと言っている内容とは裏腹に、言峰の口調はやはり面白がっているとしか聞こえなかった。
今、自分の足元にあるのは教会の板張りの床ではなく、底なし沼ではないのか。しかも、全身が爛れるほどのたっぷりとした毒を含んだ。そんな錯覚を士郎は抱いた。
誤字脱字の報告、ご感想などありましたらご利用ください。お返事はmemoにて。