やがて、アーチャーがおもむろに赤い外套の裾を翻した。ここは自分の出る幕ではない、ということだろうか。
「あ、おい、アーチャー?」
咄嗟に士郎は呼び止めたが、アーチャーは応じることもなく、そのまま廊下の向こうに長身を消した。
「ふうん、貴方のあのサーヴァントはアーチャーか。素人マスターが扱うには、随分と難しいカードを引いたものね。ま、最後の一枠だったんだから、はじめから選択の余地なんか無かったんだけど」
アーチャーを見送る形になった凛は、やれやれ、という風に息を吐いた。それから、ローファーを脱いで上がりかまちに足をかける。
「じゃ、上がらせてもらうわね、衛宮くん。セイバー、靴は脱いでね」
「はい」
どうやら、士郎には選択権は一切ない模様である。先程は敵同士であると言った以上は、ここは彼女にとって敵の本拠地である筈だが、凛は少しも斟酌せずに衛宮邸にさっさと上がりこんだ。セイバーに自分に倣うように言ってから、凛はふと思い出したように士郎に訊いた。
「あ、そういえば、衛宮くんのご家族は大丈夫? まあ、ここは魔術師のおうちなんだから、多少の非常識は平気よね」
一応、午前零時過ぎの訪問が非常識だという認識はあったようだった。それはありがたいのだが、ただし、魔術師の家だという理由で、色んな怪異も平気で飲み込めるわけではないというのは、士郎だけの意識だろうか。
それは置いておいて、士郎は少々複雑ながらも、凛に結論として心配無用、との答えを返す。
「いや、俺は1人暮らしだから」
「……そうなの? 随分と広い家みたいなのに」
凛もまた、同様に広い屋敷に1人暮らしであると、知らない士郎はあっさりと言う。
「ああ。前は爺さ……親父の切嗣と2人暮らしだったけど、5年前に死んじまったんだ。正直、1人で住むには広すぎる家だけど、せっかく親父が遺してくれたんだしさ」
士郎は何気なく答えただけだったが、凛はセイバーと顔を見合わせた。
(……まさか、切嗣が……)
セイバーの受けた衝撃は深かった。一瞬、翡翠色の眼を見開き、次いで、淡く色づいた花びらによく似た可憐な唇を微かにわななかせる。確かに、現実の人の世界で10年といえば、決して短い時間ではない。だが、まだ壮年にも満たなかった衛宮切嗣が、死去してしまうほどの長い時間ではないはずだ。となると、原因は事件か事故だろうか。決して、信頼関係にあったマスターではなかったが、それでも、彼が非業に死したと思えば、いつかそうなるのではないかとは何となく思わないでもなかったにせよ、やはり胸に痛むものを感じずにはいられなかった。
ぎゅ、と小さく拳を握り締めたセイバーに、凛は気遣わしげにそっと手を重ねた。
(大丈夫? セイバー)
(……ええ、少し驚いてしまっただけです、凛。私のことはご心配なく)
(けど、困ったわね。この調子だったら、どうも衛宮くんは鞘のこと自体を知らない確率が高そうだわ……)
他者に洩れ聞こえることのない、念話による会話を交わしながら、凛はセイバーに手短に当面の方針を伝えた。
(とりあえず、引き続きは様子を見ましょう。セイバー、わたしがいいと言うまで衛宮くんとアーチャーに攻撃はしちゃ駄目よ)
(――分かりました、他ならぬマスターの命ですから)
承諾の意を示すセイバーに頷いて、凛は士郎に向き直った。
「……そうだったのね。不躾な質問だったわね、ごめんなさい」
凛がさらりと豊かな髪を揺らし素直に謝罪すると、士郎はきょとんとし、次いで苦笑した。別に気にしなくて良いのにな、という風に。
「しょうがないさ。知らなかったんだし」
すると、しおらしさを見せたのも僅かの間、凛は物珍しそうにきょろきょろと周囲を見回した。
「それにしても、和風の家っていうのもなかなか新鮮でいいわね。居間はあっち?」
などと、ずんずんと歩いていく憧れの少女であった凛と、彼女に付き従うセイバー。今までの、士郎の世界には関与のなかった彼女達。その姿があるだけで、士郎にはいつも見慣れているはずの自分の家の廊下が、何だか異次元空間に突入してしまった気がしてきた。廊下がひどく長い。
(うう、いかんいかん)
頭を振り、今までで判明している状況を整理しようと試みる。
まず、遠坂凛は魔術師である。また、彼女は、士郎と同年の少女でありながらこの冬木の
そうだ、アーチャーは言っていた。士郎は、聖杯戦争という、魔術師同士の争いに巻き込まれたのだと。
「……」
その聖杯戦争とは如何なるものであるか、それはこれから遠坂凛が解き明かしてくれるという。士郎は覚悟を決めて、凛の後から居間へと足を踏み入れて、電気をつけた。時計は、午前一時を回っていた。
「うわっ寒っ! 何これ!?」
居間に入るなり、凛が頓狂な叫びを上げた。もっとも、それもむべなるかな。先程、ランサーから逃げるために士郎がガラスを破り出たため、強い風に吹かれる外の冷気が、一切の呵責無しで室内へと侵入してきているのだ。
「ああ悪い。さっき、ランサーってヤツから逃げるのにガラス割っちまってさ。朝になったら、ガラス入れ替えてもらうように連絡するから、ちょっと辛抱してくれ」
「……」
「遠坂?」
凛の沈黙に不吉なものを感じて、士郎はやや身構える。
「衛宮くん」
いやににこやかに、凛は士郎の名を呼んだ。
「そりゃ、取り替えてしまえば簡単だけど、貴方、こんなのも魔術で直せないの?」
「遠坂は直せるのか?」
ちら、と瞠目する士郎を一瞥すると、凛はガラスの破片を拾い上げた。何をするつもりか、と士郎が思いきや、凛はその破片で自分の指をぷつりと切った。そして、呪文を唱える。
「――Minuten vor Shweiβen」
凛の血潮に濡れた窓ガラスは、それで元通りの形状を思い出したとでもいうように、数秒とかからずに窓枠にはまり込んでいた。
「遠坂、今の――」
鮮やかな手並みに士郎が凄いなと賛嘆の眼差しを送ると、凛は逆に面白くなさそうに腰に手を当てた。
「あっきれた……。こんな、ガラスの扱いなんて、魔術の初歩の初歩じゃない。わたしが魔術師だって感知できなかったのも当然ね。それすらも知らないんだから」
ふーっと大きく凛は息をつく。やおら、一言。
「へっぽこ」
先刻から、アーチャーに散々未熟だの役立たずだのと
柳洞一成が、遠坂凛に敵視に似た警戒心を見せていたのも、士郎は事ここに至って深く納得し、理解した。こちらが凛の「素」だとすると、彼女は学校では一体、何枚の猫を重ね着しているのだろうか。
「これじゃ、五大要素の扱いとか、パスの作り方とか知ってるかと訊くのもきっと無駄ね……」
「……それって常識なのか? 俺、魔術は親父に習ったから、そういう基本とか初歩とか知らなくて……」
「……」
じろり、と凛は無言で士郎を睨んだ。はっきり言って、なまじ彼女が美人であるだけに、その様子は物凄い迫力である。ついでに、黙って凛に従うセイバーからも、何だか痛みを覚えそうな鋭い視線を感じる。タイプは違うが、共に素晴らしいばかりの美少女2人に思い切り
質問、というより尋問に近い口調で凛は士郎に訊いてきた。
「じゃあ何。貴方は何の魔術だったら使えるの?」
「強化だけど」
実はそれすらも失敗ばかりで、ランサーに抵抗するために行使した魔術が、5年ぶりに成功しましたとはとても言えない士郎だった。迂闊にそんな事実を口にしてしまえば、何だか凛が本気で激怒しそうな気がしたからだ。
「強化……。また微妙なものを。で、それ以外は使えないってワケ?」
「端的に言えば、そうなる」
誤魔化しもなく士郎は素直に肯定した。と、間髪入れずに、
「ドをつけてもいい素人ね。自分の工房の管理も出来ないような」
断定された。
流石の士郎も、会う相手会う相手にそういう扱いをされるのには、少々腹が立つものを感じた。別に、これまで遊んで過ごしてきたわけでもないのに。というか、ランサーにしろ、アーチャーにしろ、遠坂凛にしろ、明らかに優れた存在であると知れる相手から馬鹿にされるのは、何か間違っていると思うのだ。
そこへ。
「まあ、せっかくなので、立ち話も何だ。茶を淹れたので、落ち着いて座って話をしたらどうかね」
何という、勝手知ったる他人の家。アーチャーが、湯気の立つ盆を手にして衛宮邸のキッチンから出てきた。
というか、先程奥の方に引っ込んでいったのは、こうして湯を沸かしてお茶を用意するためだったとでもいうのだろうか。適度な渋みを含んだ、煎茶特有の香りが立ち上る。
「……」
「……」
「……」
士郎、凛、セイバー。沈黙の種類は、三者三様。
固まる3人をよそに、アーチャーはご丁寧に茶托まで添えて、居間の中心地に位置する座卓の上に来客用のものと思しい湯呑みを並べていく。その手際は実に洗練されていて、見事としか言い様がなかったが、それにしても。
何者だ、この男は。アーチャーを胡乱げに見る視線が集中するも、当の本人はまるで気にしていない。
そんな中、一番に我を取り戻して動いたのは凛だった。現状認識能力の高さは、優秀な魔術師の証ともいえなくもないだろう。
制服の上に羽織っていた赤いコートを脱ぎ、凛は優雅な仕草で座卓の前に広げられている座布団の上に座った。
「そうね、せっかくだから頂くわ。これは、どうも腰を据えて話さなくちゃならないみたいだし」
「本来ならば、お嬢さん方には紅茶のほうが良かったのだろうが、この家には残念ながら安物のティーバッグしかないようなのでな。あれは、とても人には出せんよ」
凛はともかく、「お嬢さん方」にカテゴライズされたセイバーは、明らかにむっとした表情を作る。しかも、アーチャーはわざと言ったようだ。その証拠に、口元に
「全く、茶葉の種類が何であれ、玉露とまでは言わんまでも、来客用に良い葉を用意していないというのはいただけん。急須も、普段用とは別の、見栄えの良いそれなりのものを置いておくべきだ。湯呑みだけを取り繕えば良いというものではない」
文句を言うアーチャー。それは当然、この衛宮邸の家主である士郎に向けられているのだが、まさか、魔術師としての未熟さだけでなく、私生活方面にまでケチをつけられるとは思いも寄らなかった士郎は、呆気にとられた。
そんな憮然とする士郎をよそに、凛は、湯呑みを持ち上げ、息を湯気に向かって一度ふっと吹きかけてから、中身を口に含む。そして一瞬、驚いた顔をして、すぐに柔らかな微笑を浮かべた。
「あら、美味しいじゃない。わたし、紅茶党なんだけど、日本茶も結構悪くないわね」
「ダージリンの
凛に答えるアーチャーは、笑顔でこそないものの、表情に刺々しさはなく、声音も比較的穏やかに感じられた。さっきは凛に向かって敵同士だと明言していたにも関わらず、だ。それから盆を片付けると、用は済んだ、とばかりに壁際まで退いた。
何者なんだ、コイツは本当に。いつもの自分の定位置に収まりながら、士郎は再度、アーチャーを視界の片隅に映す。士郎もアーチャーの淹れた茶を飲んだが、これが確かに、普段使っているのと同じ葉で淹れたものとは思えないほど、美味だった。
壁に寄りかかったアーチャーは、我関せずといった態度で、瞑目して腕を組んでいる。それでも、この場に留まっているのは、一応、士郎を案じているのだろうか。
「さて。話を始めるけど。何処から話すべきかしらね……。基本的には何も分かってないことを前提にするべきよね。分かっていることをわざわざ教えるなんて、心の贅肉だし」
ひとしきり口の中を湿した凛は、奇妙な比喩を使った後、思案する風に唇に指を当てた。ふと、気付いたようにそこで凛は、差し向かいに座る士郎の顔を見た。
「それにしても、まともに魔術も使えないのに、アーチャーを召喚するまでランサー相手によくやりあえたわね、衛宮くん」
「やりあってなんかない。あれは一方的に遊ばれてたとか、してやられてたとか、そういうもんだった」
そう、あれはあまりに一方的だった。やりあっていた、という表現は、その後に行われたアーチャーとランサーの戦闘にこそ適用されるのであって、士郎は、ランサーから懸命に逃げるだけで精一杯だったのだから。
「ふうん、変な見栄張らないんだ。そっかそっか。衛宮くんって、本当にそのまんまなのね」
士郎の率直な態度はどうやら好感を与えたらしく、凛は少し目尻を下げた。そのまま、雰囲気も僅かながら和やかなものになった凛は、語り始めた。
「まず、衛宮くんはマスターに選ばれた。これだけは分かってると思うけど」
「ああ」
アーチャーも士郎をマスターと呼ぶのだから、士郎も言葉としては理解はしている。ただ、それがどういうものなのかが、よく分からないだけで。
「マスターというのは、聖杯に選ばれた7人の魔術師のこと。その証として、手とか腕とかに、聖痕を持っているわ。それは令呪といって、サーヴァントを統べる命令権でもあるの。当然、わたしも持っている」
そう言って、凛は士郎に向けて自らの右手を差し出して見せた。士郎のものと、形は違うが意匠は同じと知れる紋様が、そこにはくっきりと浮き出ている。
「これか……」
士郎もまた、不可思議な紋様の刻まれた、自分の左手の甲を改めて見やる。
「それは、サーヴァントへの強制的絶対命令を3回だけ可能にする――それのみに特化した極限の呪法の刻印よ。よく見て。3画の図形になってるでしょ? 1回使うごとに、1画ずつ消えていく。使う方法は簡単。呪文とかは要らなくて、サーヴァントに命じたいことを、強く念じるだけで良いの。そうすれば、サーヴァントには自由意志があるって気付いてるでしょうけど、その意思を無視してでも、不可能を可能にすることも出来るわ。例えば、遠くにいるサーヴァントを、任意の場所に移動させるとかね。あるいは、サーヴァントにとって理不尽な命令にでも、無理矢理従わせるとか」
具体例を挙げることで分かりやすく説明した凛は、一旦言葉を切った後、重々しく忠告する。
「でも、気をつけなさい。令呪を全部使い尽くしたら、衛宮くんはきっと殺されるからね。まだ使える令呪を持っているマスターにはそれを奪い取るって意義があるけど、令呪を失くしたマスターなんて、何の存在価値もないわ。だから、令呪を使うとしたら2回までにしておくことね」
「殺される――?」
「そうよ。聖杯戦争の基本は、マスター同士の殺し合い。聖杯を望む7人のマスター同士が戦って、最後に残った者に、万物の願望器といわれる聖杯が与えられるんだから」
とんでもないことをさらっと言った凛に、士郎は眼を白黒させる。
「せ、聖杯って……。最後の晩餐に使われたとか、キリストの血を受けたとか言う、あれか? そんなものが、この冬木にあるってのか?」
「聖杯の由来なんて、どうでもいいじゃない。確実なことは、そういうものが存在していて、それを巡って7人のマスターが互いに殺し合う、聖杯戦争というゲームの当事者の1人に貴方はなったのよ、衛宮くん」
「――」
それは、アーチャーも言っていた。士郎はマスターに選ばれて、聖杯戦争の真っ只中に放り込まれたと。
だから、衛宮士郎と、同じくマスターである遠坂凛は敵同士なのだ。
マスターに選ばれた自分。
サーヴァントという使い魔。
聖杯戦争。
アーチャーが、遠坂凛が、それらが今の士郎にとっての「世界」の全てなのだと告げる。認めろ、受け入れろと。
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