Lunatic

01


 アーチャーは衛宮邸の屋根の上に座って、見るともなしに空を見上げていた。この夜の月は、見事な満月だった。
 頬に当たる、涼気を含んだ夜風を心地良く感じながら、ふとアーチャーの口の端に苦笑の影がよぎる。
 本来であれば既に死した身で、こんなに平和に夜空を眺めることがあるなんて、改めて考えると、奇妙に感じられて仕方が無い。
 肌寒くもないのに、アーチャーは微かに身震いした。
 ああ。日中は、下手をすれば忘れている事実を、こんなに月の美しい夜は思い起こしてしまう。
 自分は既に死んで、そして生命の輪廻を外れた者だと。この体は、血肉を持っていて生者と寸分違わぬように見えても、所詮は魔力で構成された仮初の存在に過ぎない。胸の下にある心臓の鼓動も、流れる血液も、人のものと変わらないのに、人とは違う。この体は、水泡(みなわ)の夢と同じ。死ねば腐り落ちる有機物ではなく、単に現界を解かれ最初から存在などしなかったかのようにして、光と弾けて消えるだけ。
 黄金めいた太陽の明るい光とは違う、銀砂を思わせる月の密やかな光は、影を深めて胸奥をざわつかせる。
「アーチャー」
 呼ぶ声に、アーチャーは視線を空から地上へと巡らせた。
 金の髪の少女が、庭に立って彼を見上げていた。
「どうしたのだ、セイバー」
「そちらへ、行ってもいいですか?」
「別にここは私の所有地では無い。かまわんよ」
「では」
 頷いたセイバーは、とん、と軽く地を蹴って一息で屋根の上に身を移す。
 そして、アーチャーの隣に並んで腰を下ろした。
「美しい月夜ですね」
「……そうだな」
 セイバーの微笑が、軽く鈍い痛みをアーチャーにもたらす。
 初恋の、少女だった。アーチャーのサーヴァントとして召喚されたエミヤシロウが、何も知らなかった少年時代、ただ人の衛宮士郎であった時の、美しすぎる思い出だった。彼女と過ごした10日あまりの短い日々はひたすら戦いの連続で、こんな風にして一緒に月を見上げることなんて、かなわなかった。
 かなわなかったことばかりだった。今は、それを後悔してるわけでは無いけれども。
 救えないまま、朝陽の中に溶けていった少女の姿が、今の微笑と重なって――古傷のように、痛む。今の彼女は、この時系列における衛宮士郎のセイバーであって、衛宮士郎だったアーチャーのセイバーではないとしても。
 月光に照らされていた、気高い騎士王。きっと、彼女の助けになるのだと誓った、運命の夜を思い出す。(さざなみ)のように、かつての記憶がアーチャーを揺らした。
 随分、遠くまで来たのだ。かつての平凡な魔術師見習いが、あの彼女と同じ英霊の存在にまで至るなんて。
「何だか、不思議です」
 アーチャーの内心を知ってか知らずか、セイバーがぽつりと言った。
「キャメロットでも月は見ていたはずなのに、月を見て美しいと思うなんて、今初めて知ったように感じるのです」
「今夜はいやに感傷的なのだな」
 自らの感傷は苦笑の中に押し隠し、アーチャーはいつもの口調で答えた。
「私にだって、そういう時はあります」
 からかわれたかと思ったのか、セイバーは、むう、と愛らしいふくれっつらを作る。
「貴方もそうだから、ここにいたのではないのですか」
「……賑やかな場所は苦手でね」
 セイバーはいつだって真っ直ぐだ。手にした聖剣で、果敢に敵に相対する時と同じく、言うことも直截である。そこが好もしいのだが、色々と自分が曲がりくねってしまった今となっては、時々、アーチャーは対処に困る。
 懐かしいはずなのに、懐かしくない家。不意に、それに説明し難い居たたまれなさを感じた夜、アーチャーは決まって屋根の上に行く。そうして、記憶もあやふやな故郷の街を、ただ眺めるのだ。意味など無い。だが、そうしていれば、人々の営みの灯火が見て取れて、何となく気が穏やかになるから、それだけだ。凛などは、そんなアーチャーの様子を、まるで衛宮邸の鬼瓦ね、と言って笑う。
「貴方が、この家に住むと聞いた時、最初は」
 セイバーは、ふと翡翠を象嵌したような双眸を、隣に座るアーチャーに向けた。
「正直、不安に思いました。貴方は、その――とにかくシロウとは仲が、悪かった、もので」
「責めないのか」
 唇に刻んだ苦笑の形はそのまま、僅かに自嘲を混ぜ込む。自嘲や自虐はアーチャーの悪い癖だ、と言われるが、もはや性分となってしまったこれは、変えようも無い。
 信じられない、と今更ながらにして、自分でもアーチャーは思うのだ。
 かつては、本気で殺したいと憎んだ過去の自分――衛宮士郎。遠い日の赤銅色の髪と琥珀色の瞳を持つ少年に、好きだと言われ、その腕に抱かれる自分が。
 同一の存在同士で、何という不毛な関係だ、そう思わずにいられない。けれど、その一方で、士郎と情を交わすことを、アーチャーが決して厭ってはいないことも事実だった。ただの肉欲だけではなく。心から全てを欲されることを。――あの思春期特有の、激しすぎる情熱についていけない時もあるが。
 元々は、こんなに深入りするつもりは無かった。第一、許されることには慣れていない。あれよあれよという間に、士郎との関係を半ば衛宮邸の住人達から公認とされてしまったことに、時々頭が痛くなる。
 特に、衛宮士郎をマスターとするセイバーには、アーチャーの存在は複雑だろうと思う。主従関係というだけではなく、セイバーが士郎に淡く惹かれていたことも、知っているから。
 しかし、セイバーは静かに(かぶり)を振った。美しい金糸の髪を纏めた、青いリボンが揺れる。
「驚いたのは事実です。ですが――あのシロウが、ちゃんと望むことが出来たというのが、嬉しかったのも嘘ではないのです」
「……すまん」
「謝らないでください、……シロウ。私は、貴方のことも言っているのですよ」
「――セイバー、君は……」
 研ぎ澄まされた鋼と同じ色の目を、アーチャーが見開いた。セイバーは、悪戯っぽく笑った。
「一度、貴方のことをシロウと呼んでみたかったのです、アーチャー。今夜は、いい機会でした」
 シロウ。
 失った筈の名で呼ばれた。昔のように、かの少女に。ただそれだけのことなのに、アーチャーはいとも他愛なく動揺して硬直して、二の句を次げなかった。月光の下に、凍える彫像のように。唇は震えるばかりで、いつもはよく皮肉やら厭味やらに回る舌が何の役にも立たない。ただ、アーチャーはセイバーを見つめるだけだった。セイバーもそれ以上は何も言わずに、アーチャーを見る。
 永遠にすら思える、刹那。
 その呪縛の間を破ったのは、家の中から聞こえてきた少年の声だった。
「セイバー! 何処行ったんだ? 貰い物のイチゴ洗ったぞ、食べるだろ」
「あ、はい、シロウ。頂きます、今、行きます!」
 屋根の下を覗き込むようにして、セイバーが応じた。そのまま、セイバーは立ち上がった。
「シロウが呼んでいるので、私は行きますね。貴方は、まだここにいるのですか?」
「ああ。私は、もう少し夜風に当たっている」
「そうですか。では、良い夜を」
 上がってきた時と同様、セイバーは身軽に地上へと戻っていく。その姿が母屋の影の中に消えるのを見送って、アーチャーは1人ごちた。
「……参ったな」
 きっと、月が美しすぎるせいだ、どうもさっきから調子が狂うのは。
 満月の光は、人の心を狂わせるというから。月の揺籃(ようらん)、其は人に狂気をもたらすもの。ライカンスロープは、満月の夜に変身する。
 胸が、疼く。血が、ざわつく。
 アーチャーは、心臓の上を手で押さえた。





 衛宮邸に住むことをアーチャーが選択した時、では部屋割りをどうしよう、となった。この時、アーチャーは別に何処でもいい、と言うと誰もが想像していた。
 しかし、実際にはアーチャーはある部屋を選んで希望したのだ。
「ここがいい」
 と。ここ「で」いい、ではなく、ここ「が」いい、と。
 衛宮士郎が、少し渋い顔をした。何もここでなくてもいいだろう、と言いたげに。
 その部屋は、かつて衛宮切嗣という人が暮らしていた部屋だったからだ。衛宮士郎の養父。正義の味方を目指す衛宮士郎の、夢の原点に立っていた人。
 写真を見て、ああ、切嗣はこういう顔だったなとやっと思い出せるくらい、遠い面影になってしまった。
 切嗣が死去して、既に5年の歳月が経っている。それでも、名残の欠片を拾い集めたくなるのは、単に懐かしいから、なのだろうか。
 確認したいのかもしれない。切嗣との思い出が、自分にとってどれだけ大切だったのか。磨耗した記憶の中の、隙間を埋めたいと。
 仕舞いこまれていた遺品の一つだった切嗣の浴衣を、士郎の許可を得て寝巻きとして着用しているのも、きっとそんな心の動きからだったのだろう。直し無しでは少し着丈が短かった浴衣は、隔たった時の遠さを感じさせずにいられなかったけれど。大きくなったなあ、なんてあの人は笑ってくれるだろうか。あり得ない、ただの希望に近い想像でしかないが。
 埒も無い考えを抱きながら、布団の上に横になったアーチャーは、人の気配に閉じていた瞼を開く。
「……アーチャー、ちょっといいか」
 襖の向こうから声がする。やれやれ、と布団から起き上がり、アーチャーは入り口の襖を開けた。
 廊下に立っている少年に、素っ気無く問う。
「何をしに来た」
 その物凄い歓迎振りに、士郎は思わず即答してしまった。
「夜這い」
「帰れ」
 思いっきり、鼻先で襖を閉められそうになり、士郎は慌てて「ちょっと待て、冗談だって!」と、縁に手をかけようとした。手が挟まれる寸前に、しかし、襖は静止した。
「……と言いたいところだが、まあいいだろう」
「へ?」
 逆に中に招き入れられるかのように、再び襖が開かれる。
 今ひとつ、状況が飲み込めずぽかんとした表情の士郎に、アーチャーは特に眉を動かすこともなく、平静そのもの、といった調子で普段の彼からは絶対に飛び出ないであろう言葉を口に出した。
「何だ、やらんのか?」
「やります」
 コンマ何秒かの思考の間も無く、士郎は大きく頷いて有難くご招待を受ける。本当は別の用事があったことはあったんだけど、まあいいか、と滅多に無いどころか椿事とも言うべきアーチャーの態度に否応無く気分を高揚させられて、士郎は浴衣姿で布団の上に座った相手を注視した。
 女性と違って、大きく抜いているわけでもないのに、浴衣の襟元がいやに目に眩しい。胡坐をかくためにさばかれた裾が影を落とす足元に、何ともいえぬ艶を感じる。
 いつもとあまりに違う、色香を全身に纏いつかせて隠しもしない雰囲気のアーチャーに、士郎は妙にどぎまぎした。顔を覗き込むようにして、訊いてみた。
「……けど、どうしたんだよ、アーチャー。寝ようとしてたんだろ」
「そのつもりだったが」
 言いながら、アーチャーは士郎に腕を伸ばし、肩を引き寄せる。
「オレが、抱いて欲しい、と言ったらどうする?」
「どう……って」
 思いもかけない言葉を受けて、士郎が盛んに瞬きを繰り返す。
 今まで、何度も士郎はアーチャーを抱いたが、それはいずれも士郎からアーチャーを望んで、だった。逆は、一度も無かった。今、この瞬間まで。
 アーチャーが笑った。恐ろしいくらいに姚冶なその笑みに、ひどく士郎の胸が高鳴る。
「嫌か?」
「嫌なわけないだろ。驚いただけだ」
「だったら、抱いてくれ……士郎」
 濡れた鋼色の目が、士郎を見る。士郎は、思わずごくりと唾を飲んだ。
 高められて追い詰められるまで、いつも理性を手放さないアーチャーが、今日は自分から士郎を欲してくる。もう口癖になっているのではないか、と思うような「嫌だ」や「やめろ」といった否定の語も無く、である。それはいっそ、凶暴なまでの喜びになってしまいそうだった。
 士郎は、自分もアーチャーの広い背に手を回す。アーチャーは素直に目を閉じて、士郎の口づけを受けた。
 柔らかな肉を舌で割り、濡れた口内へと差し込む。暖かい口蓋を愛撫して、歯列をなぞり舌の裏側を掬う。
「……ん……」
 小さな声と共に、アーチャーは迎え入れた士郎の舌を甘噛みした。互いの吐息が混じりあい、舌を絡めて溢れそうな唾液を啜り合う。渇いた人間が、水を求めるように。
 唇の合わせを変えて、士郎はなおもアーチャーの粘膜を擦り、舌を嬲った。
「は、あ、――ん……」
 口唇を食み合わせ、貪られて、吸われて、噛まれて、アーチャーは僅かに士郎の肩を掴んだ手に力を込めた。
「なあ、アーチャー」
 左手で腰を抱き、右手で軽く白い髪を梳きながら、唇を離した士郎は至近距離から褐色の相貌を見つめる。
「何か、あったのか」
「月の光を浴びすぎて」
 士郎のしたいようにさせたまま、アーチャーはくっ、と喉の奥から笑いを零した。
「狂わされたのかもしれんな」
 それでいて、やや性急に身体の線を辿り始めた指はやんわりと外す。
「逃げんのだから、がっつくな。狼男」
 軽やかに、アーチャーは揶揄するように士郎から身を離した。
「月の、せいなのかよ」
 自分から誘っておいて、と少々不満顔をする士郎を、アーチャーは軽く目で制した。
 するり、と帯を解く。袷を割りはだけて、裾を開く。一度、肘の辺りでわだかまった後、抵抗無く、浴衣はアーチャーの身体を離れて零れ落ちた。躊躇いの動作も無しで、下着に手をかけて脱ぐ。右脚を抜き、左脚を抜く。これで、アーチャーの身を隠すものは何も無くなった。
 晒される、褐色の肌。
 満月が皓々と輝く淡い光の下、神秘的にすら見える、その逞しい裸身。
 士郎が触れたことのない場所など無い体は、筋肉が美しい陰影を描いている。魅了されたように、食い入るように見つめる士郎に、のしかかるようにしてアーチャーは囁いた。
「知らんのか。満月の夜は、人の狂気を呼ぶんだ」
 ルナティック。その意味は狂気、精神異常。語源は、ラテン語の「月に影響された」。
「士郎」
 名を呼ぶ。赤銅色の頭に腕を巻きつけ、今度はアーチャーから唇を重ねた。

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