Je te veux

01


 最近、衛宮士郎は、弁当を眺めて溜息をつくことが増えた。ただし、毎日ではなく、特定の弁当を持ってきた日に限って、だ。
 弁当に不満があるわけでは無い。断じて無い。そんなこと言ったら、天罰が下ってしまう。こんな重箱入り豪華弁当にケチをつけるなんて、絶対にあり得ない。
 つまるところ、士郎の問題は、弁当を作った、本日の食事当番であるところの相手にあるわけで。
「……みや」
 アーチャー。
 背中に回された手の熱さも、涙で滲んだ鋼色の瞳も、耳元に聞こえた荒い息遣いも、切ない喘ぎ声も、乱れた白銀色の髪も、合わせた肌の感触も、記憶の中ならとても近くにあるのに。
 実際のところは、初めて抱いて以来、士郎はアーチャーを抱くどころか指も触れてもいない。というのも、絶妙に微妙に、アーチャーに距離を置かれているからである。
 嫌われているわけではない、それだけは確かだ。セイバー達が近くにいない時に、話しかけてみれば、アーチャーはちゃんと士郎の眼を見て静かに答えを返してくるのだから。けれど、誰かが近くを通りかかると、アーチャーは以前のように、士郎を邪険にする態度を見せるのだ。
 つまるところ、それは。
 守護者となった自分とは違う道を歩いて行こうとする衛宮士郎の行く先を、少し見てみたくなったとアーチャーは言って衛宮邸に住み始めた。その時、アーチャーは士郎に告げた。
『オレは、既に時が止まった者、偶然にすれ違っただけの幻と同じだ』
 と。だから、これ以上は未来ある者であるお前は、自分に深入りしてはいけないと、言外に鋼の瞳が雄弁に語っていた。あの交わりはただの儀式だった。魔力を分けてもらったことには感謝はするが、もうオレを抱いたことなど忘れて、お前は未来を共に歩いていける相手のことを考えろと。
 どうして。どうして、そうやって人のことばかりを考えるんだ、お前は。そうやって人を気遣って自分自身を摩り減らす、そんなことばかりに慣れてしまって。だったら、俺のこの今の気持ちはどうしたらいいんだ? お前を好きだと思う、俺の嘘偽りも無い、苦しいくらいのこの感情を、宙に放り出せって言うのか。お前を抱いたときのお前の体の熱さも、それも幻だって言うのか? なあ、アーチャー。そんな簡単に割り切れるんだったら、お前だって英霊になんかなってないだろう。
 結局は、衛宮士郎はエミヤシロウを理解して、エミヤシロウは衛宮士郎を理解しているのだ。そして、互いに己の持たないものを相手に認めているのは同じでも、それを求めるか求めないかで、2人はすれ違っている。
 士郎はアーチャーを求め、アーチャーは士郎を求めない。
 アーチャーの態度は、士郎を思うからこそだというのは分かる。そりゃ、綺麗で可愛い女の子達よりも、実はごつい野郎の方が好きでした、などというのは、やはりこの現代社会においては問題がありすぎるだろうけれども。
 好きなものは好きなのだから、どうしようもない。
 あんな風に、アーチャーを知ってしまっては。余計に想いが募る。
 最初は、単にアーチャーに毎日会えればいいなと思って、自分が知らないところでアーチャーが傷つくのは嫌だと思って、彼が家に住むことを提案したけれど。人生とは、実にままならない。
「衛宮!!」
 明後日の方向に飛んでいた士郎の意識は、その声でようやく現実の時間に戻ってきた。
「あ、ああ、何だよ一成、大声出して」
「さっきから呼んでいるのに、お前が気付かんからだろう」
「む。そうか、すまん」
 士郎の友人である生徒会長は、お茶を口にしながら眉をひそめる。
「体調でも悪いのか。全然、弁当に手をつけてもいないではないか、衛宮。もう昼休みは半分を過ぎたぞ」
「うわ、ほんとだ」
 言われて、時計を見た士郎は慌てて箸を動かし始めた。
 何が切ないって、この弁当が美味過ぎるのが切ない。複雑な表情が顔に浮かんでくるのが、士郎には自分でも分かった。
「衛宮、何か悩み事でもあるのなら、良ければ相談に乗るぞ」
 そんな士郎の様子に何か感じるものがあったのか、一成が訊いてくる。
「悩みか……。――あー……まあ、あるといえばあるけど。俺が解消できる問題じゃないからなあ」
「それはまた、厄介な悩みだな」
 厄介な相手に惚れてしまったのだから、それはもう。
 ふむ、と一成は思案する風に眼鏡を持ち上げた。
「ならば、一度、正面からぶつかってみてはどうだ?」
「へ?」
 意外な返答を得て、士郎は眼を見開く。
「何か思わぬ道が開けるかも知れんぞ。まあ、保証は出来んがな」
「正面突破か……」
 確かに、それは一考の余地があるかもしれない。士郎が、真っ直ぐに好きだと告げると、アーチャーはものの見事に固まっていた。相手の気持ちを考えるのは確かに大事だが、そればかりでは堂々巡りの繰り返しだということを、当のアーチャーが示している。
「そうだな。開き直ることもありかもしれないな。サンキュ、一成。ちょっと気が晴れた」
「何、お安い御用だ。迷える衆生に導きを与えるのも、御仏の道なり」
 拝む仕草を見せる一成に、士郎は笑って弁当を一気にかきこんだ。



 一方、実につれない士郎の想い人はというと。
「セイバー、夕飯の買い出しに行くが、何か食べたいものはあるかね」
 今夜の食事の献立のことを考えていた。
「そうですね……」
 アーチャーの問いを受けて、セイバーは愛らしく首を傾げる。
「シュン、というものに興味があります」
「シュン? ――ああ、旬か。なるほど」
「テレビで言っていました。その季節季節にしか食べられないものだとか」
「そうだな。最近ではハウス栽培やら養殖やらで、季節外の食材も手に入ることが珍しくないが、やはり本来の季節の天然ものを食べるのが一番美味だ」
 今ならば、ふきのとうや山独活辺りが手に入れば天麩羅にするか、もし魚屋にイカナゴの在庫があれば釘煮も作ろう。とアーチャーは財布を手に取って立ち上がった。
「では、行って来る」
「はい、行ってらっしゃい。楽しみにしています、アーチャー」
 セイバーは微笑んで、アーチャーを見送った。
 靴を履き、外に出たアーチャーは、明るい陽射しに僅かに鋼色の眼を細める。買い物ついでに散歩でもしたくなる、天気の良い日だった。
 ゆったりとした足取りで、衛宮邸全員の御用達、マウント深山商店街に向かう。まず最初は八百屋だ。
 店先にはおあつらえ向きに、ふきのとうも山独活も置いてあった。その他に、釘煮に使う山椒や、いい牛蒡もあったので、それも買うことにする。
「こんなん、山ん中に行きゃあ、いくらでも生えてるってのに、わざわざ金出して買うなんて勿体ねえよなあ」
「世の中の大半の人間は、君のようなサバイバーではないのだが」
 アーチャーが求めた品物を包みながら、店員にあるまじきことを言う蒼い髪の不良バイト店員。魚屋、花屋に続いて今度は八百屋か、などと思いつつアーチャーは呆れた口調で応じた。
「ひ弱だよな、現代人ってヤツは」
「君を基準に考えると、ほぼ誰もがひ弱になるだろうな」
 ほれ、と袋に入れて手渡された品物の代金を支払うアーチャーを、ランサーはしげしげと眺めやった。
 そして、一言。
「何か、最近、お前雰囲気変わったよな」
「? そうかね?」
「ああ。前は何っつーか、こう、迂闊に触ったら切れそうな、剥き出しの剣みたいに誰に対してもとんがってたのに、随分と柔らかくなった感じがする」
「……戦争の真っ最中ならともかく、そうではない平時には、剣は鞘にしまわれるのが当たり前ではないか」
 ランサーの言葉に、アーチャーが僅かにぎくりとしたのは確かだった。だが、それを悟らせない程度の韜晦(とうかい)には慣れている。いつものように、皮肉な調子で声を出した。
「アイルランドの稀代の大英雄も、平和ボケと来たか」
「お前なあ、褒めるんだか貶すんだか、どっちかはっきりしろよ!」
「おや、私は単に忌憚無い意見を述べただけだが」
 アーチャーが唇を釣り上げる笑いを浮かべると、ランサーは大仰な溜息をついた。
「ったく……。口の悪さはそうそう変わるわけねえか」
「お褒めに預かり、光栄の至りだ。では、失礼する」
 八百屋の前から踵を返し、次の目的地の魚屋へと足を向けつつ、アーチャーは心中で1人ごちた。
(――変わった、か)
 あの聖杯戦争を通じて、アーチャーは磨耗していつの間にか見失っていたものを、再び見出した。信念という希望を、アーチャーの前に見せ付けたのは過去の自分であって、過去の自分ではない少年だった。
 衛宮士郎。
 彼が自分と同じ道を歩まない。同じ名と共通する過去の記憶を持ってはいても、もう衛宮士郎とエミヤシロウは別の存在なのだ。それが、全ての答え。
 常にアーチャーは、士郎に二律背反(アンビバレンツ)な感情を抱いていた。憎悪と、期待と。もっとも、どちらも、絶望に塗れた自分を「終わらせてくれるかもしれない」という思いに基づいたものではあったが。だから、士郎を時には助け、そして士郎を殺そうとした。そうやって得られた結末は、アーチャーにとって、間違いない答えだった。
 それで充分だったのに。
 アーチャーを好きだ、などと言うのだ、あの、未来を乗り越えた少年は。のみならず。
 抱かれた。女のように。喘がされて、啼かされた。
 何故、拒めなかったのだろう。時間さえ経てば、魔力の回復など、どうにでもなったというのに。何故、士郎に抱かれることに同意してしまったのだろう。アーチャーの雰囲気が変わった、というのはランサーの慧眼なのだろうか。それとも、誰にでも分かるのだろうか。
 士郎を受け入れたことで、確かにアーチャーの気持ちに変化はあった。恋とか愛とかは上にはつかないが、士郎に情が湧いたのは事実だ。忘れていた人の心の熱さというものを、士郎はアーチャーに真っ直ぐにぶつけてきた。正直、それを眩しく尊いとさえ思う。
 思うからこそ、尚更。彼は心身ともに人の世界に生きるべきであって、人の世の理から外れた自分とは、相容れてはならぬと唇を噛む。所詮はこの身は反英雄。まっとうな信仰も得ることのない、世界の所有する“モノ”にしか過ぎない。いずれは、空に歯車の軋む、赤い剣の丘に帰る身だ。けれど、もう後悔はしない、自分の選択に。
 ただ、士郎には、幸せに、なって欲しいと願う。自分が気付かなかった、とても身近にある優しい幸せを、こんな歪な自分に向かって無邪気に笑うことが出来る少年には、手に入れて欲しいと、切に。
 オレはもう――大丈夫、だから。
 だから、もう……オレを好きだなどと、言ってくれるな。肯定してくれた、それだけで充分だ。
 そこまで思考に沈んでいたアーチャーは、何かに気付いたように、小さく息を吐いた。溜息未満の、不明瞭な吐息。
 そもそも、ランサーが妙なことを言ってくるから、余計なことを考えてしまったではないか。
 幸い、今日は良い天気だ。頭を冷やすのも兼ねて、買い物を全部終えたら少し散歩してから帰ろう。



「ただいま」
「お帰りなさい、おや、シロウ達が先でしたか」
 士郎、凛、桜が連れ立って学校から帰宅してきたのを、庭で洗濯物を取り込んでいたセイバーが出迎えた。
「先って?」
 凛がセイバーに訊く。
「アーチャーが、夕飯の買い物に出かけてからまだ帰ってきていないので。今日は天気が良いので、散歩でもしているのかもしれませんね」
「あら、噂をすれば、アーチャーさん帰ってきましたよ」
 背の高い人影が歩いてくるのをいち早く見つけた桜が、買い物袋を提げたアーチャーに向かって「お帰りなさい!」と手を振った。
「ああ――こういう場合は、お帰りと言うべきかただいまと言うべきか、どちらがいいのだろうな」
 アーチャーは、相変わらずの生真面目さで言う。どっちでもいいわよ細かいわね、と凛が笑った。今夜のおかずは何に決まったのですか、とセイバーが問い、アーチャーが天麩羅にしようと思う、と答える。それは、穏やかな午後の穏やかな一幕。
「……アーチャー」
 靴紐を解いて、一足先に靴を脱いでいた士郎が、1人だけその場で場違いな、いやに真剣な声で廊下の上からアーチャーを呼んだ。
 少し前まで、その少年のことを考えていたアーチャーは、それを気取られぬようにいかにも嫌々、といった風に士郎に顔を向ける。
「……何だ、衛宮士郎」
「話がある」
「ここでか」
「ここでだ。いいから、こっち来いよ」
 何故だか、ここは引かぬという態度を漲らせた士郎に、アーチャーは靴箱の上に食材の入った袋を置いて、仕方なく歩み寄った。
「何だ」
 仁王立ちしている士郎の前に立つ。
(え)
 何を、とアーチャーが思う間もなく、ぐい、と引き締まった腰を引かれる。更には、首の後ろに手を回されて、アーチャーは士郎に抱き寄せられた。士郎が廊下の上に立ち、アーチャーが玄関の上にいるから、普段の大きな身長差が少し緩和されている。
「シロウ!?」
「何やってんのよ、士郎!?」
「せ、先輩!?」
 少女達の声が口々に非難じみた響きをもって、士郎を呼ぶ。
 出来る事ことなら、アーチャーもそれに唱和したかった。
 けれども、唇を塞がれては、出来なかった。
 思考停止だ。何という、暴挙もいいところだ。一体、何を考えて、こんな……!
 アーチャーが硬直しているのをいいことに、士郎は無遠慮に口腔に押し入ってきた。
「ん、……んっ……っ!」
 舌を絡め取られて、根元からきつく吸われる。舌が痺れる感覚に、アーチャーが小さな声を洩らした。すると、それを喜んでいるのか、士郎の口づけは深さと強さを増した。角度を変えて嬲り、まさぐり、貪る。
 アーチャーの息が上がる。それで、ようやく士郎はアーチャーを解放した。
「き……貴様、この馬鹿、何を……!」
 士郎が唇を離したことで、我を取り戻したアーチャーは、慌てて士郎から身を離そうとした。だが、士郎はそれを許すまい、と逆に長身をきつく抱き込んでくる。アーチャーが赤くなってじたばたするのを、楽しんでさえいるようだ。
「は、離せ、たわけが!」
「嫌だ。離さない」
 いつもの2人と形勢逆転したような光景を眺めさせられていたギャラリー達だったが、ぽかーん、と開かれていた口の機能を、真っ先に凛が回復した。
「……いきなり、玄関先でのこのご乱行、どういうことなのか説明していただきたいわ、士郎、アーチャー?」
 あかいあくまが微笑んでいる。もっとも、眼は笑っていない。
「ええ、本当に。じっくりたっぷりお話を聞かせて欲しいですね」
 あかいあくまの妹も、黒いあくまと化してやっぱり笑顔で、やっぱり眼が笑っていない。
「……」
 騎士王は無言だ。その沈黙は、物凄い重い。
 士郎に抱きしめられるというか、抱きつかれた形のままで、アーチャーは背筋を冷たい汗が流れていくのを感じていた。
 何でこんなことに。いや、それよりもどういうつもりだ、この大たわけは!!
 アーチャーが、士郎を殴り倒してやろうかと拳を固めた時。
 士郎は、アーチャーに好きだと告げたのと同じ、恐ろしいほどに真摯な声で言った。
「いいよ。皆にも、俺がアーチャーのこと好きだって、ちゃんと知っておいてもらいたい」
 とんでもない、爆弾発言を。


 ……本当に、どうしてこんなことに。

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