Close to You

03


「――ん……」
 自分の声に、漂っていた意識が弾き出される。どうやら、放心していたらしい、とアーチャーは気付いて、重くだるい体を起こそうとした。
「っ!!」
 そして、下肢を縫い止められている感覚に、まだ、士郎と繋がったままだということを嫌でも理解する。
 何時まで物欲しげに咥え込んでいるのだろう、という羞恥と、何時まで入れているんだ、という怒りとで、アーチャーの顔が赤く火照る。
「ば、馬鹿、早く抜け!」
「なあ、アーチャー」
 しかし、アーチャーの抗議など知らぬげに、士郎は褐色の肌を殊更に自分の胸前へと抱き寄せた。
「……ぁ……!」
 それが、杭打たれたままの体の、思わぬ場所に刺激を受けてしまうことになって、小さくアーチャーの肩が跳ねた。
 このままでは、また感じてしまいかねない。危機感に、アーチャーはもがいた。
 だが、脱力しきった体は容易に持ち主の意思を聞かず、士郎の膝の上から立ち上がることすら、今のアーチャーには困難だった。どうにかして士郎から離れようとはするものの、腹の辺りをがっちりと抱き込まれて、力の入らない手足ではまともに身動きも出来ない。
「放せ、この……」
 肩に当たる、士郎の髪の感触がくすぐったい。吐息が小刻みに肌に当たるから、どうやら士郎は声を立てずに喉だけで笑っているらしい。身体的にも精神的にも疲弊しきった自分と比して、変に余裕のあるその態度が、同じ男として癪に障る。大体、士郎だって、体重をまるまる任せられて重いだろうに。
 そう思っていたら、背中に唇を押し当てられて、ざわり、と皮膚の奥がざわめく。
「しろ、う……」
「悦かったか?」
 士郎の指が、際どい悪戯を始める。肘の裏、皮膚の薄い辺りを掻いてみたり、鎖骨の周辺を撫でてみたり、肋骨の上をなぞってみたり。その度に、アーチャーが小さく身をよじるのを楽しむように。
 その上、わざわざ嬉しそうにそんなことを訊いてきた。
 情事の感想などを! しかも、まだ入ったままで!
「貴様……!」
 アーチャーが唸る。
 訊くまでもないだろう。――悪かったのならば、あんな……後で耐え難いほどに死にたくなるレベルの反応を、士郎に返すわけがない。けれど、そんなこと口に出すなんて、到底無理だ。恥ずかしすぎるにもほどがある。
 肩越しに、アーチャーは士郎を横目で睨んではみるものの、快楽に溶けた情交の痕跡を、残り香のように濃く纏わいつかせた顔では、言葉の代わりに雄弁に返答をしているようなものだった。
「俺は、凄く悦かったんだけどさ」
「……馬鹿が、言わせるな……」
 念を押してくる士郎に、アーチャーは辛うじて毒づきに似た呟きを返す。
「だって、お前、基本的に言葉が足りないし。たまには、ちゃんと言って欲しいじゃないか」
「い、言えることと言えないことがあるわ、たわけ! これ以上触るな、とっとと抜かんか!!」
 ほとんど逆切れ同然に、アーチャーは命令口調で怒号を放った。彼の、頑固で、更には複雑骨折しているくせに実は結構分かりやすいという、面倒くさい性格を知悉している士郎は、ちぇーなどと言いつつ、それでもアーチャーを縛めていた腕を、割とあっさり解いた。
 ずるり、と体を塞いでいたものが抜き出される。それに大半は安堵しつつ、少しだけの名残惜しさじみたものを感じたことに、アーチャーは自分で自分にぎょっとした。
 何処まで。官能に飼い慣らわされてしまうのだ。
 士郎から解放されたというのに、アーチャーはへたり込んでしまって動けない。流石に足が痺れたらしく、揉み解してから、さてと、と体を洗い始めようとした士郎は、それに気付いた。
「アーチャー。ひょっとして」
 声をかける。
「……」
 アーチャーはそっぽを向いて、唇を噛んだ。鋼の瞳は若干、涙目だ。士郎が覗き込んでこようとするが、その度にアーチャーは顔を別方向に向ける。
 にんまりと、己の状態に士郎が笑み崩れるのが予想できたから。
 果たして、士郎は見事に図星を突いてきた。直球で。
「……腰、抜けた?」
「う、うるさい、言うな!」
 実のところ、こんな反応こそが肯定と全く同意義なのだが、現在のアーチャーはそこまで頭が働かない。士郎は、予想通りに非常に嬉しそうに声を上げる。
「そうか、そんなに悦かったんだな!」
「黙れこの野獣が!!」
 もう、アーチャーは士郎に怒鳴るだけで精一杯だ。言いたくないが、あんなに体の奥深くまで、士郎を受け入れたなどと、とにかく体位がきつすぎた。本当に情けなくて仕方が無いものの、――士郎にねだってしまったという事実の結果だから、誰をも責めようがない。
 いや、なくはない。そもそもの始まりは、人の入浴中に風呂に入ってきた、士郎が悪い。
「――だ、大体、貴様がこんなところでやりたがるから……! 何だって、ここがいいなど言い出した!?」
「うーん、後始末が楽かなと思ってさ」
 悲鳴っぽいアーチャーの詰問に、あっさりと士郎は答える。
「…………それだけか?」
 そんな、ある意味くだらない理由で、こんな無体を働かれたのか、とアーチャーは愕然とした。
「ああ。けど、やっぱり横になれないから、アーチャーは辛いよな?」
「もう二度と風呂でなんかせんわ、たわけ! もし今度入ってきたら、絶対に叩き出すからな!」
「まあまあ。体、洗ってやるから、そんなに怒るなよ」
 アーチャーの言うことを聞いているのだか聞いていないのだか、士郎は軽く流すが、それはちゃんと気付いているからだ。
 すなわち、アーチャーが士郎に抱かれることを、決して否定はしていないことに。あのプライドの高いアーチャーがそれを容認しているということは、少なくとも、彼にとって士郎は“特別な存在”なのだと。
「……妙なところを触ってきたら、腕をへし折るぞ」
 本気でやるつもりの、物騒なことを言うアーチャーだが、「殺す」と口走らなくなった分だけ、随分と士郎に対して丸くなった。
 士郎がいつも口にするようには、好きだなどと決して返してはこないけれど。少なくとも、人の――士郎の体温を苦手にしなくなっただけでも、上等である。それだけでなく、もっと、と甘い呵責を更に求めてさえくるのだから。
 たまには言葉も欲しいと思うが、あまりしつこく欲張りすぎてはやはり駄目だろう。引き際も肝心だ。とにもかくにも、取り扱い要注意の難しいお人相手では。アーチャーには、やりたい放題やっているように言われる士郎であるが、彼なりに気はちゃんと使っているのだ。一応。
「信用無いなあ」
「当然だろうが!」
 口では文句を言うものの、それは分かっているようで、アーチャーは素直に士郎に引っ張り上げられるままに椅子に座った。住人の数以上に林立するシャンプーやリンスやコンディショナーやらの中から、士郎は自分達がいつも使っているボディーソープを手に取る。ちなみに、これは士郎とアーチャーの共有だが、その辺りはアーチャーがものを増やしたがらないのと、女性陣のような拘りが無いためである(女性であっても、ライダーのような豪快な人もいるが)。
 士郎が広い背中を流し始めると、アーチャーは黙ってなされるがままである。疲れきっているせいもあるだろうが、何だかんだ言って、士郎を信用はしているということだ。
 別にアーチャーの恫喝が功を奏したというわけではないのだが、士郎は特に悪さを仕掛けることもなく、つつがなく大柄な体を洗い上げた。シャワーで流すと、白い泡を巻き込んだ水の流れが褐色の肌の上を滑り落ちていく様が、大変に艶かしく誘惑にかられそうだったが、流石にこれ以上、再び事に及ぼうとするとアーチャーが本気で切れかねない。
 アーチャーはある程度魔力を消化できたのか、一心地ついて少し落ち着いたようで、大きく息を吐いた。それから、汗に濡れた髪を、動きに機敏さは無いが士郎を制して自分で洗う。士郎もまた、そこで深追いはせずに、自分の体を洗ってから湯船に浸かる。
「……先に上がる」
 士郎に向かって、アーチャーが声をかけ、やや大儀そうに立ち上がった。
「大丈夫かよ」
 少々、足元が覚束ない様子のアーチャーに、士郎は真面目に心配するが。
「誰のせいだと思っている、たわけ!」
 などと言われてしまっては、立つ瀬が無い。
「俺だけのせいじゃないだろ? セックスは1人じゃ出来ないんだから、アーチャーだって共犯じゃないか。それに、アーチャーが可愛いこと言うから、俺、頑張ったのにさ」
「――知らん、オレは何も言っていない、忘れた!」
 八つ当たりを多大に込めた捨て台詞っぽいそれは、矛盾満載だったりするのだが、士郎は笑って肩をすくめるだけだった。何せ、この場合、普段のアーチャーだったら、ぴしゃん! とばかりに派手な音を立ててガラス戸を閉めていくのに、それすらもかなわないのだから。
 充分に温まった士郎が浴室を出ると、アーチャーはまだ頭を拭いていた。その動きはぎこちなく緩慢で、服を着るのも相当苦労した様子である。こりゃ、1人で部屋まで帰れそうにないな、と士郎は手早く体を拭いて、衣類を身に着けた。
「ほら、アーチャー。肩、貸してやるから」
 そう言いながら、士郎はアーチャーの腕を取る。
「誰が……」
 と、アーチャーは弱々しい拒絶の声を上げるが、左腕を士郎の肩に回されて脇から支えの手を差し込まれても、振り払えなかった。
「このままじゃ、お前、廊下で転びそうだぞ。それでもいいのか?」
「……」
 ち、と小さな舌打ちが聞こえた。実に不本意そうに、アーチャーは士郎に半ば抱きかかえられるような形で、洗面所を出た。士郎が、浴室と洗面所の灯りのスイッチを切ることも忘れない。
 この扉こそが、実は「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と銘が記された地獄門同然だったりするのだが、アーチャーにはこの時、その予測がついていなかった。



「……やっと終わったの……?」
 地を這うような、恨めしげな疲れた声。
 それを聞いて、びくっ、と士郎に支えられたアーチャーが体を強張らせる。
 褐色の肌が、まず白く顔色を失い、次にさーっと青くなり、最後にかーっと赤くなった。1人顔面トリコロール状態である。
 洗面所の扉の前で、凛と桜の姉妹が、所在なげに座り込んでいた。ちょこんと。
 つまり。
 きっちりとばっちりと、あられもない、なりふり構わない嬌声を聞かれていたのだ……! 特に、やばい最後の方を!!
 忘れていた事実を真正面から突きつけられて、穴があったら入りたいどころではない。死ねる。今すぐにでも。
「り……凛、桜、君達、まさか、その、い、いつからここに……」
 痛々しいほどの動揺を丸出しにして、アーチャーは恐る恐る訊いた。
「そうね、いつからかしらね。洗面所を使いたかったのよね。けど、お風呂からあんな声が響いてくるんじゃ、とてもじゃないけど無理だったわ。出歯亀する気なんて毛頭なかったけども、何かタイミングを見失って、しょうがないから終わるの待ってたのよ」
 半眼、かつ微妙に顔を赤くして凛はアーチャーと目を合さないように言った。気持ちは分かる。よーく分かる。親しい間柄の人間の、普段とは異なる情事の際の声を聞かされて、平静を保てる人間など、そうはいまい。例え、遠坂凛であっても。
「全くです。わたし、これからは、お風呂から出たらすぐに、顔を洗って歯も磨くことにします」
 桜も、士郎とアーチャーから目を逸らしながら悟りを開いたっぽい声を出して、立ち上がった。
 誤解だ。いつも、風呂でいたしているように思われるのは、心外もいいところだ! そう言いたいアーチャーだったが、この姉妹を相手に抗弁したところで勝てるだろうか? 全く勝てる気がしない。
 はーっと、凛が腕を組み、大きな溜息をついた。
「まあ、盛るな、とは言わないけど、もう少し時間と場所を考えなさいよ。あんた達はいいかもしれないけどね、こっちは気まずいったらありゃしないんだから!」
 いや、オレもよくありません。そもそも、士郎が風呂に乱入してこなかったら、こんなことになりませんでした。
「何よ。何か言いたいの? 今だって、そうやっていちゃついてて、何か言い訳があるっての?」
「いや、これは別にいちゃついてるとかそういうわけでは……」
「じゃあ、どういうわけ?」
 厳しすぎる凛の追及に、アーチャーは口を噤まざるを得なかった。
 言えっこないです。士郎の攻めに腰が抜けたとか。
 完璧に固まるアーチャーに、にこり、と一変したように桜が笑った。黒い。相当、黒い。くすくすわらってごーごーっぽい。
「それにしても、アーチャーさんって、随分、可愛い声を出せるんですね。ちょっと、食べたくなっちゃいました」
 しかも、くうくうおなかがなるんですか。勘弁してください。
 ――もうオレ、座に帰ってもいいかな?
 アーチャーの現実逃避もここに極まりそうだった。
「まあまあ、遠坂、桜も、長いこと、風呂場を占拠して悪かったよ。今度からは気をつけるからさ」
 場をとりなすかのように、士郎が口を開く。実は、この場では士郎が一番、セクハラ的な意味で加害者と言える立場だったりするのだが。
 いっそ、能天気なほどのその明るい表情に、一様に凛も桜も毒気を抜かれた顔をした。
「じゃ、俺達はもう寝るから。おやすみ!」
 その隙に、というか、士郎は長身を抱えながら、アーチャーの危地を離脱していく。随分と、要領が良くなったものである。
 2人の後姿を思わず見送って、凛は呟いた。
「……アーチャーって、実は物凄く士郎を甘やかしてるってこと、気付いているのかしら」
「気付いて無いと思いますよ。アーチャーさんって、先輩の鈍さを違う方向に進化させたみたいな感じですから」
 桜も少し首を傾げて、姉に答える。
「ほんと、困ったヤツらね」
「本当ですね」
 そう、呆れを露にした姉妹は。
 それでも、士郎の幸せそうな顔と、困惑しつつも実際にはそれを受け入れているアーチャーの様子を思い出すと、苦笑せざるを得ないのだった。



 ほとんど士郎に引きずられていたアーチャーは、現実逃避から戻ってきた。すると、スイッチが激怒モードに切り替わったらしく、アーチャーは士郎に咆哮の勢いで吐き捨てた。
「当分、貴様には抱かれないからな!」
「えー当分ってどれくらいだよ」
「二度と抱かれなくとも、オレは全くかまわんわ!」
 実際には士郎に支えられながらやっと歩いている状態なので、格好がつかないこと甚だしいのだが、また、そういう状態に陥らせたのが士郎だと思うと、余計にアーチャーは腹立たしくなる。
 それだけならまだしも(良くはないが)、閨以外では出すはずも無い、あんな声を凛や桜に聞かれたのだ。反響してやたら響き渡ることで、余計に淫蕩極まりない声を。
 それなのに、なお士郎に抱かれることが出来るほど、アーチャーは厚顔でも無恥でもなかった。
「拗ねてるのか、アーチャー」
 だが、士郎と来たらこの調子で、こいつには――昔のオレには、ここまで恥という概念が無かったのか? と、アーチャーは盛大に顔をしかめて、思わず拳を握り締める。
「たわけが! 貴様は、もう口をきくな!!」
 だが、その拳は振り下ろされることは無かった。
 ふいと、士郎の顔が持ち上がったかと思うと、アーチャーの視界いっぱいを占める。気付いた時には、士郎に唇を重ねられていた。反射的に、アーチャーは瞼を閉じてしまった。
 軽やかに重なった唇は、結合を深めることはなく、小さな音を立てて啄むように吸った後、離れていった。
「俺を黙らせたかったら、こうしろよ、アーチャー」
「……こ……っの……!」
 全く反省の様子を見せない士郎に、アーチャーはこの先、絶対にお預けを食らわせてやる、と決意を新たにする。
 アーチャーのそんな内心はともかくとして、ひとしきり、士郎は笑ってから、
「……俺達、ずっと一緒にはいられないだろ」
 ぽつり、と言った。
 何を当たり前のことを、と怪訝そうにアーチャーは士郎を見やる。
 アーチャー達サーヴァントは既に死んだ者だ。未来から来た英霊であるアーチャーは、時間軸からすれば、「この先に死ぬ」者ではあるが、彼自身の人としての生命はとっくに止まっている。本来であれば、生者である士郎達と、このように時を交えていられる方が奇跡なのだ。
 ましてや、アーチャー――英霊エミヤは、士郎の未来の可能性の、一つの姿なのだから。どんなに望んだところで、共に生きていくことなど絶対にあり得ない。それは修正されなければならない、歪みでしかないのだから。
「だから、時間を共有できる間は、出来る限りお前の傍に居たいんだ」
「……」
 その士郎の願いを、守護者たるアーチャーが愚かな、と一蹴するのは容易い。
 けれど。
 訳の分からない息苦しさを感じ、返す言葉に詰まる。何とか吐き捨てた。
「……馬鹿が」
「知ってただろ?」
 士郎が、アーチャーの腕を掴んだ腕にぎゅっと力を込めた。
「俺が、お前のことを好きで仕方が無いことだって、さ」
「……だが、悪ふざけが、過ぎる」
「ふざけてなんかない。お前が好きだから、お前が欲しいだけだ」
 ――結局、こうして許してしまうのだ。アーチャーは、士郎を。この言葉に。
「好きだ、お前が」
「――たわけめ」
 憎まれ口を叩きつつも、士郎に対する己の連戦連敗ぶりを、決して悔しくは思わないアーチャーだった。

Close to You : Fin.

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