I Just Wanna Hold You

03


 目が覚める。陽はまだ上りきっていないようで、辺りは薄暗い。ごろん、と寝返りを一度打ってから、士郎は身体を起こした。いやに、今朝は清々しい気分というか、満ち足りた気分というか、ともかく、とても心身ともにすっきりした感じがする。
 それにしても何だか肌寒いな、と士郎は思い、何気なく腕をさすり上げた。
「……ん?」
 寒いはずだ。何も着ていない。
「あ!」
 それで、思い出す。
 夕べ、アーチャーを抱いた。怪我を負い、魔力不足で弱っていた姿を見ていられなくて、そして、いたたまれなくなるほど好きだと感じて、長身を組み敷いた。
 驚くほどに艶かしい嬌声、鋼色の瞳から溢れる涙、褐色の肌の上に飛び散った白濁の淫靡さ。鍛え上げられた硬い男の体が、入り込んでしまえばあんなに気持ちがいいものだとは思わなかった。いや、それは相手がアーチャーだったから、なのだろう。きっと、そのせいだ。アーチャーはもう嫌だ無理だと言ってたのに、魔力を与えるという名目で、止まらなくなって結局3回も抱いた。今だって、彼の熱い喘ぎと慣れない快楽に身悶えする肢体を思い起こすと、腰の奥に疼きを感じそうになる。
 それこそ、自分に後悔はしないが、男に抱かれたのが初めてのアーチャーには、随分と無理をさせたなあ、とそこは反省する。何せ、“あの”アーチャーが最後は気を失ってしまったのだから、相当だ。
 部屋の中に、そのアーチャーの姿は無い。士郎は慌てて押入れを開け、適当に服を引っ張り出して、それを着る。
「あれ……」
 布団も片付けようとして、士郎は気付いた。アーチャーの傷を手当てしようと用意した、洗面器に入れた水も救急箱も、部屋の中から姿を消している。そういえば、アーチャーとの行為であれだけ汗をかいたのに、士郎の体にはべたつきも汗のにおいも残っていなかった。
 その事実から、導き出される結論は、一つだけだ。士郎から与えられた魔力を消化したアーチャーは、身体を回復させて行為の後の始末やら、片づけやらをしてくれたのだ。
「あいつ……!」
 人のこと言えた義理じゃないのは分かってるが、それでも、あれだけ啼かされて何処まで世話好きのお人よしなんだ。
 勢い良く部屋の襖を開き、士郎は廊下に出た。それから、アーチャーの気配を探して、きょろきょろと周囲を見渡す。ひょっとして、もうこの家の中にはいないんじゃないか、と思う一方で、何となくアーチャーはまだここから去っていないだろう、という根拠不明の確信もあった。
 果たして、庭の物干し竿のごく目立たないところに、アーチャーの服と士郎の服が干してある。
 ということは、アーチャーはやはり衛宮邸の何処かにいる筈だ。
「あ」
 普段から、かぎ慣れた匂いが漂ってきた。白米の炊ける匂い。小走りに台所に向かってみると、案の定アーチャーはそこにいた。
 ことことと音を立てる鍋、とんとんと包丁が具材を切る音。何をしているか、とか考えるまでも無い。アーチャーが、朝食を作っているのだ。ただし、洗った服の代わりに着るものが無いからか黒の武装姿で。少し――いや、かなりシュールである。ミスマッチ、だ。
「……アーチャー。あの、さ」
「……一応、魔力をかなり貰ったからな。その、礼というわけでもないが。腹が減っただろう」
 アーチャーは、手は止めずに士郎の声に答えた。
 律儀だ。律儀すぎる。相当量の魔力を得たということは、それだけ散々に士郎に喘がされたということだ。礼ならむしろ、たっぷりと良い思いをさせてもらった士郎の方がするべきではないのか。本当に、この男は!
 それにしても、何というか、こう。
 赤い外套を羽織っていない軽装の後姿は、殊更にアーチャーの身体の線を強調しているように見える。
 ――こう。彼を抱いた今となっては。
 僅かに覗くうなじや、剥き出しになった肩から腕、引き締まった腰から脚にかけてのラインが。色っぽいというか、ぶっちゃけ凄くエロい。そう、感じてしまう。
(わーっ、俺の馬鹿、俺の馬鹿! 朝っぱらから盛るつもりかよ、落ち着け!!)
「士郎」
「は、はいッ!」
 危険かつ非常に不謹慎な考えを追い払おうとしていたところに、振り向いたアーチャーから呼ばれて、思わず士郎は気をつけ、の姿勢で返事をしてしまった。アーチャーは、怪訝そうに眉をひそめる。
「? おかしなヤツだ。まあいい、お前の箸と茶碗はどれだ?」
「あ、うん」
 かつては自分もそれを使っていただろうに。こんな些細な日常からまず、磨耗して記憶から抜け落ちていってしまうのか。剥がれ落ちたものは、もう二度と元に戻らない。士郎のそんな感傷をよそに、アーチャーは手際よく料理を皿に盛り付けていく。
 2人分。それに目を留めて、士郎は口元に自分でもちょっとどうか、と思う類のにやけた笑みが浮かぶのを自覚しながら、大股で台所に入り、食器棚を開ける。そうだよな、取り戻せなくても、新しく手に入れられるものはあるよな。俺達が、爺さんに新しく「衛宮士郎(エミヤシロウ)」って名前を貰ったように、さ。士郎はあっさりと思考転換して、アーチャーの隣に立った。
「俺の茶碗と箸はこれ、アーチャーはこっちの客用の使えよ」
「ああ」
 ごく自然に、アーチャーが頷く。
 それにしたって、いつもの、あのツンケンしたアーチャーは何処に行ったというのか。ちらり、と士郎が見ると、アーチャーの横顔は嘘みたいに穏やかだった。普段、抜き身の剣のような鋼の瞳は、凪いだ湖面のごとくに安らいでいる。ここに、存在していることへの安堵、なのか。暫し、士郎は手放しで彼に見とれた。
「何だ?」
 気付かれた。ただし、通常は士郎に向かって常に生えている棘はやはり無く、いかにも不思議そうに、アーチャーは士郎に目を向けた。
「いや、もう回復したんだなって」
「……おかげさまでな」
 料理を載せた盆を運ぶ動作で、アーチャーが僅かに赤くなった目許を隠したということは、自分もまた照れ隠しで目線を逸らした士郎は見ていなかった。
 座卓に料理を配膳して、士郎は自分の定位置に、アーチャーはその斜め隣に腰を下ろす。
 そういえば、自分の料理にたっぷりケチをつけられたことはあるけれど、アーチャーの料理を食べるのは初めてだ。心躍るものを感じて、士郎はいただきます、と手を合わせた。
 ふっくらと炊き上がった白米に、大根と油揚げの味噌汁、出汁巻き卵、香ばしく焼いてあるアジの開き、豆腐とほうれん草の和え物、野菜の浅漬け、実に伝統的な日本の朝食の光景だ。
 士郎は、まず、味噌汁の椀を手に取り、啜る。
「……美味い」
 思わず、素直な感嘆が出た。
 言うだけのことはある、といったところか。ちなみに、アーチャーの反応はというと、当然だ、という顔だった。それでも、褒められて悪い気はしないとみえて、少しだけ口元が笑っていた。
 静穏な、朝の食卓。2人の間に特にこれといった会話は無いが、これはこれで良いかもしれないなあ、と士郎は思った。何せ、いつもの食卓は半ば戦争だ。「おかわりをください」「わたしもおかわり!」の声が乱れ飛び、油断していると自分の領土を侵略される。これが女性の多い家の食卓だろうか、と男子高校生である士郎が眩暈を感じるときがあるくらいである。あれはあれで、大変に賑やかで楽しいことは楽しいのだが。
 寄れば触れば、何かと言い合うことの多いアーチャーと、こんな雰囲気で食事が出来るなんて。
「何かさ」
 ぽりぽりと漬物を咀嚼して、士郎は現在の偽らざる心境をぽろっと零した。
「新婚夫婦みたいだな」
 一夜を共にして、それからこうやって一緒に朝食を摂っているという状況が、そう思わせたのだが。
 ぶ、とアーチャーは味噌汁を噴き出しそうになり、食べ物を粗末にできない性格上、それを飲み込もうとして気管に入れてしまい、げほげほと激しく噎せ返った。
「おい、大丈夫か、アーチャー!?」
 身を乗り出して、士郎は広い背中をさすってやった。
 暫く咳き込んでいたアーチャーは、涙目で士郎を見上げる。
「た、たわけ、言うに事欠いて、誰と誰が新婚夫婦だ!」
「俺とお前」
 勿論、俺が夫でお前が妻、とか皆までアーチャーは言わせなかった。
「死ね!」
「即答かよ!」
「大体、オレはもう無理だと何度も言ったのに、無理強いしておいて……! 貴様なんぞ、赤玉が出てしまえ、いや、いっそもげるか腐り落ちるかしろ、この変態以上の野獣!!」
「ひどっ!?」
 ちょっと良い雰囲気だと思っていたら、藪蛇だった。いつもの、いや、いつもよりも何割増しかの悪口雑言が返ってきた。それもアーチャーらしいといえばらしいのだが。干将莫耶を抜かれなかっただけ、まだましなのだけど。
 少しばかり、傷ついてしまう複雑な男心。士郎は、ぼそり、と呟いた。
「可愛くねえ……」
「当たり前だ、たわけ」
 何故か、傲然と胸を張られた。どうやら、夕べ、士郎に可愛いと言われたことを根に持っているらしい。士郎は、逆にがくりと肩を落とす。とりあえずは箸を握り直して、せっかくのアーチャーが作ってくれた朝食が勿体無くも冷めてしまう前に、全て頂いてしまうことを先決とした。
 それでも、やっぱりぼやきは出てしまうわけで。
「……何かもう、俺、夕べから一生分の『たわけ』聞いた気がする……」
「ふん、たわけ。こちらは全然言い足りんわ、たわけ」
 二度も言った。
 また目いっぱい啼かせるぞ、と、アーチャーの顰め面に物騒な思いを抱いてしまう士郎だった。
「夕べは可愛かったのに」
「まだ言うかたわけ!」
「お前のこと好きだからな!」
 ほとんど勢いに任せた士郎の言葉は、完全に不意討ちだった。一瞬、ぎょっとしたアーチャーは、思わず身を引く。だが、それを許すまい、と士郎はアーチャーの手を掴んだ。
 魔力不足でろくに体を動かせなかった昨夜と違い、今は士郎を簡単に振り払えるはずなのに、何故かアーチャーは出来なかった。士郎に手を握られたまま、呆然とアーチャーは士郎を見る。
「お前は……」
「好きだ、アーチャー」
 琥珀の双眸が、ひたりと褐色の相貌に当てられた。そして、そのまま真っ直ぐに告げる。
「好きだよ、好きだ。なあ、アーチャー、好きだって」
「……そのように、軽々しくぽんぽんと言われて信じろと?」
 アーチャーが、鋼の眼を伏せた。それは、常の彼らしくない、とても臆病な仕草だった。与えることに慣れすぎて、与えられることに慣れない者が見せる、どうしたら良いのか分からない、という、不安に揺れる表情。
 向けられる敵意や悪意には強いのに、好意や善意には脆いなんて、何て。
 何て、不器用にしか生きられなかったのだろう。その不器用さが、愛しくて、哀しい。
「そりゃ、過程とか色々とすっ飛ばして抱いちゃったからさ。信じにくいかもしれないけど」
「――一度や二度、共に寝たくらいで、貴様のものになるつもりなどない」
 ようやく、苦々しげな声を出すことに成功したアーチャーが、口を開く。それを聞いた士郎は、何度か瞬いた後、にやりと笑った。
「へえ、二度目、あるんだ。楽しみだな」
「……!!」
 墓穴といえた。一度、口から出た言葉は、戻らない。言葉尻を捉えられて、アーチャーは「言葉のあやだ!」と怒鳴ろうとするも、その前に士郎に唇を塞がれた。
 非難の声を上げようとしたアーチャーだったが、逆に口腔に入り込まれた。奥、深く。
「……っふ、ぅん……!」
 探るように口内を舌でまさぐられ、舌を絡められ、吸われる。この不埒な少年に噛みついてやろうか、とアーチャーはちらりと思ったが、結局は眼を閉じた。何度も何度も唇の合わせを変えて、士郎はアーチャーを味わうかのように口づけた。
 唇を離すと、2人の間を繋いだ唾液の糸が呼気で震える。
「……士郎」
 口元を拭って、アーチャーがじろりと睨むが、口づけの余韻の残る顔では、いかにも迫力不足である。士郎は、乗り出していた体を引いて、元の位置に座りなおした。
 そして、人懐こく笑って、言う。実に屈託なく。心から楽しそうに。
「俺、お前が好きだ。けど、別に、お前に俺を好きになれって言うんじゃないよ。俺が、お前を好きだってこと、ちゃんと分かってくれたらそれでいい」
 士郎の言葉は、アーチャーにはあまりに寛容すぎて。自分も、昔はあんな顔で笑えていたのだろうか? と、いっそ眩しい心地すら感じる。
 返す言葉につまったアーチャーは、辛うじて吐き捨てた。
「――――……勝手にしろ!」
 それきり、アーチャーは食事に専念することにしたようで、表面上は静かな食卓が戻ってくる。最初の平穏とは程遠かったが、ぎすぎすしている雰囲気ではなく、例えれば、それは、そう。
(……痴話喧嘩の後、ってこんな感じか?)
 人間は、学習する生き物である。地雷の場所を避けるのではなく、何故か自ら向かって地雷原に進んで行った上で、わざわざ地雷を踏み抜いて歩くようなところのある士郎だが、流石にそれを口にはしない。なかなかに取り扱いの難しい、性格の複雑骨折してしまった、未来から来た英霊エミヤは今度こそ、士郎を殴るどころでは済まないだろうから。
 少し冷めてしまったけれど、美味いものは美味いのだ、と士郎は朝食を平らげて、ご馳走様、とアーチャーに告げる。すると、ああ、と短いが返事がちゃんと返ってきた。言うほど、アーチャーはご機嫌斜めでもないようだ。
 後片付けは士郎が引き受けた。アーチャーは何処へ行くでもなく、新聞など広げていた。一度、庭の方へと目を走らせたのは、大方、洗濯物が何時頃乾くか、とか考えていたに違いない。
 洗い物を終えて、蛇口から流れる水を止めた士郎は、アーチャーを振り返った。
「なあ。アーチャー、お前、ここに住めよ」
「……何だ藪から棒に」
「今のお前は、遠坂とパス繋がってないんだし、ちゃんと休める場所があったほうが安心だろ」
「野獣の住処のようだがな、この家は」
「いや、だからそれは……悪かったって」
 アーチャーに言われて、決まり悪そうに、士郎は赤銅色の髪の毛をかき混ぜた。ちら、と士郎に一瞥をくれてから、アーチャーは新聞で淡く微笑んだ表情を隠す。
「まあ、考えておこう」
 時にひどく頑ななアーチャーにしては、随分と前向きな返答だった。
「是非、ご検討願います」
 冗談めかして答える士郎の声が、大きく弾んだ。  



 抱きしめたい、と思う。
 知っているか? 剣は、切れ味が鋭ければ鋭いほど、却って脆く折れやすいんだって。
 理想のためにずっと戦って、あまりに心が傷つきすぎて、自分が傷ついていると、気付きもしないお前みたいじゃないか。
 体は剣で出来ている。
 血潮は鉄で、心は硝子。
 けど、俺はお前を理解する。俺だけは、傷ついているお前を、お前が傷ついているって、理解してやる。
 そして、抱きしめて、お前が信じるまで、好きだって言ってやる。お前が信じなくても、何度だって言ってやる。強さに憧れただけじゃなくて、今はお前の脆い心も愛しいと思うから。絶望なんて、させてやりたくないから。
 俺はお前とは違う道を行く。人のままで、理想を目指して生きていく。負ってしまったお前の傷はもう癒せないものかもしれないけれど、それだけは確実だから、なあ、エミヤシロウ。俺と同じ名前の、俺とは違うお前。
 抱きしめたい、その心ごと、お前を。

I Just Wanna Hold You : Fin.

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