Dolce Vita

01


 その日の朝。
 玄関まで朝刊を取りに行こうとしたアーチャーは、異変に気付いた。
 今朝の食事当番は、士郎だった筈。通常ならば、この時間は既に起きて、準備を始めている頃合だ。それなのに、居間にも台所にも人の気配がしない。
 寝坊か? と、アーチャーは廊下をそのままUターンした。
 士郎の部屋の前まで戻り、入り口の襖を開けて中を覗き込む。
「……士郎?」
 違和感。
 布団は敷いてあって、確かに敷布団と掛け布団の間に人が寝ている盛り上がりはあるが、その……。
 小さい。盛り上がり方が。いくら何でも、士郎の体格からしても、あまりにも小さい。
 嫌な予感が猛烈にする。アーチャーは冷や汗の予兆を堪えて、布団に近寄ってみた。士郎は中に潜り込んでいるようで、掛け布団の下からは赤銅色の髪の毛が僅かしか見えない。
 恐る恐る、片膝をついて掛け布団をめくった。
 予想はついたものの、覚悟はしたくなかった光景が、そこに出現した。
 小さい士郎が、子犬のように体を丸めて寝ている。身長が縮んだせいで、サイズが合わなくなってだぶついた寝巻きの中で。年齢的には、多分、切嗣に助けられた頃と同じくらいだ。
 ……布団を戻して、見なかったことにするべきだろうか。
 思わず、アーチャーは現実逃避しそうになった。が、現実逃避してみたところで、現状打破にはならない。とりあえず、考え込む。
 なんでさ。
 原因は想像がつくが、理由がさっぱり思い当たらない。
 誰が、何のために、士郎に、かの英雄王の若返りの薬を与えた? あれは、サーヴァントではない、普通の人間には有害なものではないのならいいが。それに、意識の方はどうなっているのだ?
 そうやって、何となくアーチャーが士郎を起こすのを躊躇っていると、もぞもぞと身じろぎした士郎が、ぱちりと眼を開けた。眠たげに瞼をこすりながら、起き上がる。そして、布団の傍らで固まるアーチャーの姿に気付いて、にぱっと笑う。
「あ、アーチャー。おはよう」
 いかにも子供らしい、無邪気以外何物でも無い笑顔だった。
 まさか。ひょっとして。これは……。
 アーチャーの顔が強張った。
「士郎、お前……」
 きょとん、と士郎はアーチャーを見る。真に、あどけない表情で。
「だ、大丈夫、か……? いや何だその、何かおかしいとか、思わない、のか……?」
 むしろアーチャーが大丈夫じゃない。
 士郎は、そんなアーチャーの様子に、ぱちぱちと琥珀の目を瞬かせた。いかにも不思議そうに。
「何が? 変なアーチャー」
 何じゃこりゃーっ!?
 某往年の名作刑事ドラマの某刑事の殉職台詞が、アーチャーの頭の中を駆け巡った。
 意識自体は子供のそれに戻っているようだが、記憶の方は年齢当時のものには戻っていないらしい。記憶というか、状況に対する認識は基本的には元の士郎のまま、そこに幼くなった意識が混線している、という状態っぽい。少なくとも、士郎自身はこの現状に対する疑問は何も持っていないことは確かだ。
 どうするんだこれ。夢なら醒めてくれ。いや、サーヴァントは夢なんか見ないよな……。
 士郎が精神的にも子供化してしまった以上は、まあ、何だ。いつものような、押し倒される類の身の危険の心配は無いが、それにしたって。
「なあなあ、アーチャー。どうしたんだよ。どっか痛いのか?」
 いつの間にか、何となく正座していたアーチャーの膝を、士郎が心配そうに小さな手で揺すってきた。
 もはや、力なくはははと笑って、オレは大丈夫だと士郎の頭を撫でるしかないアーチャーだった。



「あ。アーチャーさん、先輩はどうしたんですか? 土蔵は覗いてみたんですけど、いなかったですし……。まだ、部屋で寝てました?」
 食事当番の士郎の姿が見えないので、代わりに朝食の準備をしていた桜は、カウンターの上に皿を置いていたところに、居間にちょうどアーチャーが入ってきたので、そう訊いた。
 問われたアーチャーは、疲れたように首を振って、無言で目線を下に向けた。
「?」
 その視線を追って、桜もそちらを見る。
 小さい士郎が、アーチャーの右手を握って、にっこりと笑った。ちなみに、士郎が着ている服は、言うまでもなくアーチャーが投影したものである。
「おはよう、桜!」
 そして、実に元気良く、士郎は朝の挨拶をする。
「!!」
 物凄い衝撃を受けた様子で、桜は目を見開いてよろめいた。それから、赤らめた頬に両手を当てる、所謂夢見る乙女のポーズをする桜の周囲には、ハートマークや花が乱れ飛んでいるのが見えてもおかしくない。
「……か」
「か?」
 士郎が首を傾げる。またその仕草が、桜の乙女心をクリティカルヒットしたらしい。
「可愛いっ!! 何ですか先輩、この可愛さは!! 可愛すぎます!!」
 感極まったように桜は叫んだ。その勢いに、ちょっと怯えた風に士郎はアーチャーにしがみつく。気持ちは分からないでもない。だって、今にも「食べちゃいたい」とか言われそうだから。
「やだ、でも、これじゃ先輩って呼ぶのおかしいですよね。し、士郎くんとか呼んだらいいのかしら……」
「……桜」
 戻ってきてくれ、頼むから。
 色んな意味で途方に暮れるアーチャーだった。
 そこへ、涼やかな声が流れてくる。
「おはようございます、今朝は随分と賑やかですね」
「あ、おはようセイバー」
 アーチャーの手にしがみついたまま、士郎がその声の主に振り向いた。
「なっ!?」
 思いもかけない下方から朝の挨拶を受けたセイバーは、ざっと後じさった。何せ、本来であれば、彼女はこの家で一番小柄であるため、自分の目の高さより下から声を掛けられる事態がありえないからだ。
 セイバーは、まず、そこに立っているアーチャーの姿を視界に捉えて、それから視線を徐々に下へと移動させる。翠緑の瞳が、かなり低い位置にある、普段ならば目にすることの無い赤銅色の頭のてっぺんをようやく視認した。
「……シロウ?」
「そうだよ、当たり前だろ。――何か、今日は皆、変なの」
 ぷう、と不満そうに士郎は頬を膨らませた。
「……!!」
「……!!」
 その仕草は、何だか、可愛いものが大好きな女性のハートを鷲掴みにしたっぽい。桜は言わずもがな、セイバーまでもがその白い頬を微かな桜色に染めている。ライオンのぬいぐるみや、ペンギン型カキ氷機を目にした時みたいである。
 士郎の手を握ってやっているアーチャーは、もうどうしようかな一体、という感じで遠い目だ。
「おはようございます。どうしたのですか、皆」
 ライダーも居間に現れた。そして、常の朝には無い、奇妙な――困惑したような変に浮かれたような空気が漂っているのに、訝しげに“魔眼殺し”の眼鏡の奥の目を細める。
「おはようライダー。アーチャーも桜もセイバーもおかしいんだけど、何かあったのかなあ?」
 何かも何も。
 お前が原因だよ。
 内心でアーチャーは呟いたが、現在の士郎にとっては今の状態が「当たり前」という認識になっているので、お前は本当は高校生なのだ、とか言ったところで理解できまい。
 ライダーは、比較的冷静な態度で、アーチャーと、彼にぴったりとくっついて離れない小さな士郎を交互に見比べた。
「アーチャー……これは、どういうことになっているのでしょう」
「……私に訊かないでくれ。朝、食事当番が起きていないので、部屋に行ってみたらこの状態になっていたのだ。私にも訳が分からん」
「そうですか。夕べは、貴方は士郎と共に夜を過ごしたのではなかったのですね。それは失礼しました」
「ちょっ……、き、君な!?」
 さらっとかつ、にこりと言われ、アーチャーは慌てた。それって、朝っぱらから口にしていい台詞なのかとか、そもそも毎晩いたしているように思われているのかまさかとか、女性にこんなネタでからからかわれていいのかとか。ちなみに、夜の生活の方だが、最近では熾烈かつ低レベルな、士郎との血で血を笑うような壮絶なる協議の結果、毎日でもいいという士郎とせめて一週間に一度にしろというアーチャーの間で、3、4日に一度という妥協が為された。後一歩で、本当に血を見そうだった。主に、激切れしたアーチャーのせいで士郎が。
 いや、それはどうでもいい、この際。
 冷静に見えるが、ライダーも驚いてるだけだ、多分。そうだ、元々はライダーも、凛とは違うタイプの意地悪キャラだろう、だからこういう表現をするのだ、落ち着け、落ち着けオレ。何だか、とっ散らかりそうになる思考を軌道修正したアーチャーは、当面の危機を口にした。
「桜……フライパンが焦げそうだぞ」
「きゃああああ!? やだ、ごめんなさい!!」
 きな臭い異臭が漂いかける一歩手前に、流石にトリップから戻った桜が慌てて、コンロの火を止める。
「しかし、今朝は色々と余計な時間を食ってしまったな。下手をすると学校に遅刻してしまうだろう、私も手伝おう、桜」
「そうですね……じゃあ、お願いしていいですか、アーチャーさん」
「ああ」
「俺も! 俺も手伝う!」
 はいはい、と士郎が勢い良く挙手する。その微笑ましい様子に、一斉に全員の目許が和む(含アーチャー)。
 ぽん、とアーチャーは士郎の頭に手を載せる。普段ならば、アーチャーに子供扱いされると気を悪くする士郎だが、今の士郎は非常に嬉しそうだ。
「そうか、ならば士郎には、出来た料理を皆のところに運んでもらおうか」
「うん!」
 士郎が小さくなってしまって最初はどうしようかと思ったが、意外とこれは悪くないかもしれん、とかアーチャーが思っていることを、大きい方の通常士郎が知ったら血の涙を流すかもしれない。
「あー……おはよ……」
 桜とアーチャーの2人が、手際よく朝食の準備を片付けていく。今朝は洋食だ。その頃になって、朝に弱い凛が、どんよりとした寝ぼけ顔で一際遅れて入ってきた。朝食はほとんど出来上がって、それぞれの定位置に配膳を待つだけの状態の時間に、ようやっと凛が出てくるのは、毎朝のことだ。
「遠坂、おはよう。遅いぞー」
 キッチンカウンターにかじりついていた小さな士郎の声に、凛は目を丸くする。
 が、彼女の驚愕の種類は、その他の面子とは少し違っていた。
「やだ。士郎が縮んじゃったの?」
 我等が遠坂様の開口一番は、それだった。
「――まさか、この事態の原因は君だったのか」
 じろり、とアーチャーが非難がましい目を向けると、凛は悪びれる風も無く肩をすくめた。
「だって、アーチャーが若返ったら、本当に士郎そのものになるのか、実験したかったんだもの」
「……」
 危なかった!! 凛のうっかり癖がこんなところで幸いか!!
 思わず、アーチャーは胸を撫で下ろす。
 衛宮士郎時代に戻った自分など、そんなものを衆目に晒されたら、と思うとぞっとする。以前は、全身全霊で抹殺しようとした過去の自分――代償としての現在の衛宮士郎ではなく、アーチャー自身の当の過去そのものなどと。風呂場で士郎に抱かれて、あられもない喘ぎ声を凛や桜に聞かれてしまったときの羞恥と、匹敵するかもしれない事態だ。いや、きっとそれ以上だ。
 ――要らん事まで思い出してしまった。
 気を取り直すために、アーチャーは咳払いをした。
「そのために、ギルガメッシュに若返りの薬を分けてもらったと?」
「ええ、快く分けてくれたわ。面白そうですね、って」
 ということは、ギルガメッシュ(小)の方か。人当たりが柔らかく、天使のようにも見える小さい英雄王だが、やはり本質は我様王様なギルガメッシュ(大)と同一だ。何てことをしてくれる。
 はあ、とアーチャーは溜息をついた。
「仕方ない、一度、ギルガメッシュと話をせねばなるまいな」
 大変、気は進まないが。
「午前中は教会にいるって言ってたわよ。あーでも、ほんと残念」
 紅茶のカップを手にして、言葉どおり、心底残念そうに零す凛に、がくりと肩を落とすアーチャーだった。
「……勘弁してくれ」
 もしもそうなったらそうなったで、士郎はまさか自分と全く同じ姿の相手にも欲情するのだろうかと、ちらりと頭をよぎった疑問は、アーチャーは猛烈な勢いで投げ捨てておいた。




 凛と桜は、通常通りに登校した。子供になった士郎は、まさか学校に行くわけにはいかないので、留守番だ。欠席の理由は、凛が「おたふく風邪」に勝手に決めた。
「リンパ腺が腫れて酷い顔だから、って言っておいたら、長期欠席でも柳洞くんとかお見舞いに来れないでしょ」
 と、あかいあくまは言った。それにしたって、もっとましな理由は無いのか、とアーチャーは思わないでもなかったが、まあ、きっと日頃の士郎の行いの賜物だろう、と結局は納得した。
 いつものように朝食の後片付けを済ませ、セイバーやライダーと手分けして洗濯と掃除をこなし、さて、とアーチャーは時計を見る。
 午前10時半。ライダーはバイトに出かけた。士郎は、セイバーと一緒に楽しそうにTVゲームで遊んでいる。
「士郎、セイバー。少し教会に行って来る」
 声をかけると、セイバーが「はい、分かりました」と応じた。士郎は、教会、という単語に微妙そうな顔をした。それは、この当時の士郎の心理状況なのか、それとも本来の士郎の心理状況なのかはいまいち不明だが、いずれにせよ、教会という場所が士郎にとってはあまり良い印象の無い場所であることに変わりはないだろう。そこにアーチャーが行く、と言うので不安めいた感情を持ったに違いない。
 まあ、アーチャーとてその気持ちに大差は無い。何せ、言峰教会の元の主であった陰険麻婆神父こと言峰綺礼は先の聖杯戦争において死去しているものの、その後任としてやって来た毒舌シスター、カレン・オルテンシアだって、負けず劣らずの曲者なのだ。進んで関わり合いにはなりたくない。
 なりたくないが、別に今日はカレンに会いに行くわけではなく、ギルガメッシュに会って、確かめるべきことを確かめるだけだ。いやまあ、ギルガメッシュだって、出来れば進んで会いたい相手ではないが。
 だから、と言うわけではないが、アーチャーは士郎の目の高さまで身を屈めた。
「心配するな。昼には帰ってくる。昼食には、お前の食べたいものを作ってやるから。何がいい、士郎?」
 常の士郎には、絶対に向けない優しい言葉である。これもまた、なんでさ、と、士郎が知れば拗ねるだろうが、アーチャーの知ったことではない。毎度毎度、無体を強いてくる方が悪いのだ。その点、子供は(性的な)悪さをしないので優しくなろうともいうものである。
「……うーんと、オムライス!」
「分かった。では、セイバー、すまんが士郎を頼む」
「ええ、アーチャー、任せてください。元々、シロウは私のマスターですから」
 ナチュラルに、アーチャーは士郎の保護者的立場発言をしているのだが、自身はそういう態度が凛やライダーにからかわれる原因になっているとは、露とも気付いていないのだった。更には、セイバーもその辺りは気付いてないようで、やはりナチュラルにアーチャーの言葉を受け入れたのだった。
 出かける前に、オムライスに必要な材料の在庫があるかどうか、冷蔵庫の中身を確認したアーチャーは、「では、行って来る」と改めて言い、家を出た。
 徒歩やバスは面倒であるし、時間短縮のためにも、霊体化して一気に深山町から新都まで翔ける。そういえば、最近はあまり霊体化していないことに、アーチャーはふと思い至った。
 共にいられる間は、出来るだけ傍に居たい。
 いつもの士郎の声が、急に耳の奥に木霊した。
「――!!」
 いや違う。オレは、何も士郎の願いを聞き届けているわけではないぞ! 断じてだ! ただ、そう、長く故郷に現界しているものだから、人であった頃を懐かしんで、実体中心で過ごしているだけだ!!
 誰も聞いていないのだから別に言い訳をする必要など無いのに、アーチャーはそんなことを考えながら、教会の敷地に降り立った。周囲に人の姿が無いことを確認し、霊体化を解く。
 キイ、と音を立てて教会の扉を開いたアーチャーは、礼拝堂に足を踏み入れた。祭壇に立っていた、豪奢な金髪の少年がアーチャーの方を振り返って、にっこりと微笑んだ。
「あれ、アーチャーさんじゃないですか。ああ、例の薬の話ですね。けど、お姉さんはアーチャーさんに飲ませるつもりだったみたいですが、誰が飲んだんですか?」
 話が早い。少なくとも、幼年体のギルガメッシュは、青年体と比べると、遥かに話は通じる。
「……あれは、人体には害は無いものなのか?」
 なので、アーチャーも率直に訊くことにした。若干、昼までの時間を気にしながら。

誤字脱字の報告、ご感想などありましたらご利用ください。お返事はmemoにて。

お名前: 一言コメント:  返信不要 どちらでも
コメント: