――ずっと、この日を待っていた。10年間――
遠坂凛は、砕いた宝石を用いて描いた召喚陣を前に、静かに思い起こす。
“戦争”に行き、帰ってこなかった父、遠坂時臣。わたしは、彼の後を継ぐ者。本来ならば、こんなに短い間隔であの戦争がまた起こるはずはないのだが、確かに聖杯が現れる“徴候”があったと、教会にいるどうにもいけ好かない兄弟子にして監督役が、戦争が始まることを凛に告げてきた。言われるまでもなく、凛自身、分かっていた。マスターたる証、令呪がこの身に現れる兆しが確かにあったから。
この冬木の地に、再び降り立つ聖杯。それを巡って、魔術師である7人のマスターと、そのマスターに仕える7騎の使い魔・サーヴァントが互いに殺しあう儀式、“聖杯戦争”が始まるのだ。
凛の父である時臣は、10年前の戦争にマスターとして参加し、敗れて死んだ。父の死は、勿論悲しかったが、それは魔術師が魔術師である以上は、常に覚悟しておかなければならないことなので、凛は打ちひしがれはしなかった。その代わり、自分がもし聖杯戦争に参加することになれば、絶対に途中で負けてなんかやらない、と決意して、努力も研鑽も怠らなかった。
ありとあらゆる全ての願いを叶えるという聖杯は、姿を現しかけたということで、既に半分は遠坂凛の願いを叶えてくれたようなものだけど。
残り半分の願いは、自分で全力をもって掴み取るものだ。
だから、手順は完璧だった。父が残してくれた、魔力が溢れるほどに蓄えられたペンダントを首にかけて、万全の態勢を整え、おまけに骨董屋で宝石を吟味している時に見つけた、小指の爪ほどの大きさの
必ず、最優といわれる剣の騎士のサーヴァント、セイバーを召喚するために。この手に、聖杯戦争の最後の勝者たる力を得るために。
「――
体内の魔術回路のスイッチを切り替え、ゆっくりと魔力を満たしていく。はっきりとした、明らかな手応えが伝わってくる。召喚の文言を刻んでいく。
「
ぽつり、と凛の手から滴ったのは、血ではなく、宝石の雫だった。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
ぶわり、と巻き起こった風が、彼女の黒い髪を巻き上げる。
「――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
"何か"が、確実に引き寄せられた。
英霊をこの世に呼び出すため、今やそのためだけの回路という存在に成り果てた凛は、体中を苛む人としての自分と魔術回路としての自分との、切り刻まれるような相克に耐えながら、紡ぎ続ける。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!!」
満ちていく。濃すぎるまでのエーテルが。
満ちて満ちて満ちて荒れ狂って――ゆっくりと収束する。視界を閉ざされていてもなお、瞳の奥まで
目に見えなくとも、一際大きく、召喚陣が明滅するのが分かる。
――来る!!
どくん、と自分の心臓が高鳴る音が聞こえた。
莫大な魔力の気配が、如実に感じられる。
そして。
「――問おう。貴方が、私のマスターか」
そんな声が、彼女の聴覚を震わせた。
とても涼やかで澄んだ、それでいて儚さなどは微塵もなく、むしろ毅然とした威厳に満ちたその声は、しかし。
「……え?」
今の、女の子の声じゃなかった?
想定していなかった驚愕に、凛は慌てて視覚を叩き起こそうと、懸命に召喚陣へと目を凝らす。
「サーヴァント・セイバー、召喚に従い参上した」
果たして、そこに立っていたのは、1人の小柄な少女だった。
黄金を紡いだかのような髪。白磁の如き滑らかな肌。鮮やかに萌え出でる新緑と同じ色の双眸。金糸で縁取られた時代がかった青い衣。闇の中にあってもその闇を退けんばかりに輝く銀の鎧。
少女は美しかった。敵と戦い、
その、美しすぎる少女が、真っ直ぐに凛を見つめていた。凛もまた、呆然として少女を見つめた。
時間にしては、2分ほどか。だが、不自然な沈黙としては、充分に長い時間だった。
「……どうしたのですか、私を召喚したのは貴方でしょう?」
何時までも問いかけに応えを返さない凛に向かって、少女は小さく首を傾げる。
「……んー、……ちょっと待って、ゴメン」
それに対し、凛は眼前の少女に向かって、ストップ、という仕草をしてみせる。む、と騎士姿の少女は僅かに不服そうな表情を作ったが、特に逆らいはせずに語を継ぐのを止める。
凛は、額に指を当て、頭痛を堪える仕草をした。
「えーと、これは……わたし、また、やっちゃったのかしら……? あああああもう信じらんない、あんなにたくさんの宝石使ったのにー!!」
魔術の名門であり、この霊脈たゆたう冬木市の
だから、またやってしまったか――凛は地面に突っ伏してしまいたい気分だった。もう、肝心要の時にどうしてこうなるのよ!! アーサー王を召喚したのに、何で似ても似つかない可愛い女の子が出てきたわけ!? そりゃ確かに、この子がセイバーに相当する力を持ってるってのは分かるんだけど、もんの凄い魔力を帯びてるんだから!! 自分で自分のことセイバーって言ったし!! けど。じゃあ、わたしが呼んだのは一体何処の誰よ!?
そんな凛の苦悩と困惑の理由に思い至ったか、ふむ、と少女が納得したように鷹揚に頷いた。
「……なるほど、貴方はアーサー王を召喚した筈なのに、現れた私がアーサー王に見えないから困っているのですね」
「そうそう、そうなのよ……って、え?」
思わず咄嗟に勢い込んで首肯した凛に、少女は淡く苦笑する。
「まあ、私の召喚者は、大体そういう反応ですから。ですが、貴方は召喚に失敗したわけではありません、マスター。私こそが、ウーサー・ペンドラゴンと王妃イグレーヌの子にして
「ははぁ……」
凛は、少女の説明を受けて、改めてまじまじと相手を見た。
アーサー王。
中世の
また、アーサー王は
そのアーサー王が。
今、遠坂凛の眼前にいる、華麗な美少女がその本人であると。
「イメージが違いすぎるわ……と言いたいところだけど、伝説伝承の類なんて、人から人に伝わっていく間に変形していくものよね。それに、貴方もアーサーなんて男名を名乗っていたんだから、本当は女だってことを隠していたってことだし。あの当時、女の王様なんてあり得ないことだものね」
凛の言葉に、少女ははい、と柳眉をきりと引き締めた。
「むしろ、私が後世まで偉丈夫の男性であったと伝えられるのは、実に喜ばしいことです。例え、生まれ持った私のこの体が女のものであるとしても、私はブリテン王になるための剣を抜いた時から、女である以前に騎士であり、王なのですから。ましてや、英霊となった今では、肉体の性別など意味をなしません」
そのような表情をすると、彼女には少女というよりも少年に近い印象がある。それは、きっと、アルトリアと名付けられた少女が、アーサーという名の王になってから、外したことのない騎士王の顔なのだ。
不意に、目の前に立つ少女が、イングランドの草の波立つ丘の上で剣を杖にして彼方を見据える姿が、凛には見えた気がした。
ああ、本当にこの子がアーサー王なんだ。この子はアーサー王なんだ。
すとん、と全てが腑に落ちた気がした。
真っ直ぐな、誇り高き瞳の少女。
サーヴァントは、人間以上の存在である。使い魔には分類されるが、何せ、サーヴァントとは、英霊――死後、信仰の対象にまで祭り上げられた英雄の魂を、マスターを依り代にすることでかりそめの肉体を与えて、この世に再び降り立たせたものだ。従って、普通は人間に御し得る存在ではない。相手は、人の理想を具現化した存在なのだから。令呪という三回だけの絶対命令権をマスターが得ていることと、サーヴァントが現界するに必要な魔力をマスターから供給されていることとで、サーヴァントはマスターに「従わされているだけ」に過ぎない。下手をすれば、利害関係の不一致などで、サーヴァントに殺されるマスターもいるという。
しかし、騎士王である少女は、召喚主である凛を軽んじる様子は一切なく、丁重な騎士の礼節を崩さない。
彼女は、非常に信頼のできる相棒となりそうだ、と凛は思った。
最優のサーヴァントといわれるセイバーとして召喚したアーサー王が、実は少女であるというのは意外もいいところだったが、彼女は少女の身でありながらセイバーの
とりあえずは、凛は状況に納得した。正確には、納得することにした。いつまでもぐだぐだしているのは、彼女の性には合わないからだ。この思い切りの良さが、時々、短所になることもある遠坂凛の長所だった。
簡単に言ってしまえば、凛は少女を気に入ったのだった。
「そっか。貴方がホントにアーサー王本人ということは、じゃあ、アレ本当の本物だったんだ」
「アレ? それは何のことでしょう?」
「貴方を召喚するのに使った触媒」
ほら、これよ。指先で摘み上げた柘榴石を、凛は少女――セイバーの前にかざして見せた。
「わたしは宝石を使った魔術を得意としているの。だから、折を見ては色んな宝石を集めてるんだけど、まさか、本当にアーサー王の持ち物だったなんてね」
「……確かに」
ほんの少しだけ緑の目を細めるセイバー。今は戻らぬ過去の輝かしき栄光を、宝石の深い赤い色の向こうに見透かすかのように。
「それは、私が昔使っていた、装飾品の一部だったものですね」
「これのおかげで、わたしは貴方を呼び出すことができたわ」
にっこりと、凛は笑った。とても清々しく、気持ちの良い笑顔で、颯爽と。
「それで、わたしには、貴方をサーヴァントとすることに一切の異論は無いんだけど、セイバーはどう?」
「サーヴァントにはマスターを選ぶ権利はありませんが――」
そう答えつつ、セイバーは感嘆した風に軽く息を吐いた。
「私の中に、膨大で上質な魔力が注ぎ込まれているのを感じます。これだけの魔力があれば、私は存分に力を揮えるでしょう。貴方は非常に卓越した魔術師なのですね。私を召喚したのが貴方であることを、嬉しく思います。マスター」
「それは良かったわ。じゃ、改めて。よろしくね、セイバー。わたしのサーヴァント」
凛は、セイバーに右手を差し出した。
一瞬、きょとんとした顔で凛の右手と凛の顔を見比べて、セイバーは、
「はい、マスター」
清雅な笑みを浮かべて、銀の籠手に包まれた右手でもって、差し出された凛の手を握った。
「これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。――ここに、契約は完了した」
かくして、運命は廻り始める。それは、遠坂凛1人のものだけではなく、この聖杯戦争に参加することになる、全ての人間の運命だ。
目覚めるべきは後1人。最後のサーヴァントが召喚されれば、冬木市における第五次聖杯戦争の幕が切って落とされることになる。
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