Get Along Together

 少しずつ、冬の厳しさを取り払って、優しさと柔らかさを増していく春の陽光。眠っていた樹々には徐々に緑の色が戻り、花の蕾がほころんでいき、風が光り始める。清冽さを含んだ空気。人の世がどのように移ろうとも、四季の営みは不変である。
 パラティヌス王国の王都ウィニアに築かれた、天主・金剛殿。その王城の中庭にしつらえられたテラスで、一人の青年が、眩しそうに、薄暮の空の色に似た藍色の瞳を細めて、晴れ渡った蒼穹を見上げていた。
 年の頃は二十代前半。光に透かすと青みを帯びて見える、長く伸ばした髪を編んで垂らし、肩には藍の民の伝統的民族衣装である、青く染められた布肩衣を掛けている。彫りの深い端整な顔立ち、かつては常に鎧に包まれていた、均整の取れた長身を持つその青年の名を、パラティヌス全土で知らぬ者はほとんどいるまい。
 元革命軍蒼天騎士団指揮官、マグナス・ガラント。あのパラティヌス革命戦争では、彼の率いる騎士団が戦いの帰趨を決めたと言われ、戦争が終結してから一年経った今では、空白となった王位に即き、「共和王」と呼ばれる、フレデリック・ラスキンの右腕として、王国将軍職を拝している。
 ただ、マグナスは、自分が「ローディス教国の支配を唯々諾々と受け入れ、下級民の声も聞かず、虚飾に満ちた偽りの享楽を貪るデュルメール王家を打倒し、パラティヌスをローディスの魔手から取り戻した英雄」などと称賛されるのは、面映い気がする。
(俺一人の力じゃない)
 最後に決断を下すのはマグナスであったとしても、それも常に支えてくれる騎士団の仲間たちがいたから、ここまで来ることが出来たのだ。
 それに、ローディスはともかく、デュルメール王家が絶対悪でなどなかったことを、マグナスは知っている。
(ユミル……)
 銀髪紫眼の、少女とも見まがう幼馴染の第二王子の顔を、マグナスは思い起こす。
 金の民の象徴である金髪も碧眼も持たず、母の命と引き換えにして生まれてきたため、父に疎まれ続けていた少年。国の未来を案じ、真剣に人々を救おうと考えていた少年。マグナスだけが友であった少年。神の力を手に入れ、この世を糺そうとした少年。
 契約の子――半神半人であり、豊穣の女神であり、魔界の女王であるダニカ神のための魂の器。その出生も、運命も、全て他者に押し付けられたものだった。そして、やはり他者の手によって、その短い生涯を終えてしまった。
 それでも、彼は精一杯「ユミル・デュルメール」として生きた。マグナスは、そのことを決して忘れない、と思う。死んだ者は絶対に甦らない。ならば、生きている者が、忘れないでいること。それこそが、失われたものに対する、生者が出来る唯一のことであり、示すことの出来る最大の礼儀であるのではないか。
 初めてユミルと出会い、一緒によく遊んだ、白大理石を刻んで造られたテラスに立ち、マグナスは静かに思った。今では、冷静にユミルのことを思い出せる。それは、マグナスがユミルのことを“思い出”として、自分の記憶の中で整理しつつあるからだ。そして、永遠の訣別を告げることが出来るだろう。「さようなら、ユミル」と。それが良いことか悪いことかは分からないが、生者が死者への思いに囚われて、前へ進めなくなることを、死者は喜ぶだろうか?生者の未来への足枷となることを。
 風が、マグナスの前髪を揺らした。
「マグナス!」
 その風が運んできたかのように、マグナスの耳にはきはきとした快活な声が届いた。
「レイア」
 声の主は、アッシュブロンドの髪、やや吊り上がり気味のコバルトブルーの瞳、意思の強そうな口元――俗っぽい表現を使えば、「気の強そうな美人」。そんな容姿を持つ、元北方領主ヌミトール・シルヴィス伯の一人娘で、マグナスの生死を共にした仲間の一人、レイア・シルヴィスは、マグナスに向かって軽く手を上げた。
 革命戦争の終結後、蒼天騎士団の構成員の多くは、各地に散っていった。猛将アスナベルは、娘のカトレーダと、そしてトロアを伴って、故郷へ。鳴弦士リーデルは、戦争で荒廃した国土の復興に尽力するために、王都を去った。雷火のヴァドは、同胞であるボルマウカ人達の許へと。メレディアは、亡きレイアの父・シルヴィス伯の業績を引き継ぐため、王立学院に戻り、戦災孤児の救済に当たるという。星辰の騎士エウロペアは、神官戦士長として東方教会へと帰還。そして、マグナスに多大な力を貸してくれた、勇者デスティン、聖母アイーシャ、妖術士サラディン、疾風のデボネア、天空のギルバルドら5人のゼノビア人達は、故国ゼノビアに帰国した。「また、会おう」。皆、そう言い残して。
 そんな中で、マグナスと共に王都ウィニアにとどまったのは、軍師ヒューゴー、マグナスの父・堅牢地神アンキセス、そして、南部軍士官候補生だった時からの仲間のディオとレイア。
 ところで、レイアとの初対面の印象は、と訊かれると、マグナスはやや言葉に詰まる。顔は可愛いのだが、ヒューゴーが「ジャジャ馬」、といみじくも評したようにいかにも勝気で強気な言動で、いきなりディオと睨み合うレイアを、内心、扱いにくそうな少女だ、と思ったことなど、到底口には出せない。
 もっとも、それは当初の印象の話である。騎士団の同志として、共に革命の道を歩んでいくうち、その認識は徐々に変化していった。勝気で強気は、性格だから常に根底にあるにせよ、レイアはマグナスの指揮官としての才を認め、その指示に逆らうことは無く、いつでもマグナスの近くにいて、マグナスに協力してくれた。有能な魔法戦士として、あるいは蒼天騎士団の幹部として。
「急に会いたいなんて言われて、驚いたわ」
 レイアは、マグナスに歩み寄る。
 以前のレイアは、“可愛い少女”だったが、今では“美しい女性”と形容する方が相応しいだろう。それも、深窓の令嬢の楚々とした美しさではない。太陽の光を浴びて、力強く咲き誇る夏の花の美しさだ。凛として生命力に満ちた、躍動感のある溌剌とした美しさ。そう――ユミルのような、儚げな美しさとは、全く逆な。
「迷惑だったかな」
 マグナスが少し困ったような顔をすると、レイアは頭一つ分高いマグナスの顔を見上げて、くすくす笑った。
「本当に迷惑だったら、来ないわよ」
「だったら良かった。来てくれて嬉しいよ」
 そう言ったマグナスの笑顔は、あまりにも優しかった。その笑顔は、レイア一人にだけに向けられている。レイアは、自分の心臓の鼓動が、一瞬、大きく跳ね上がる音を聞いた。次いで、頬に朱が上ってくる。それを隠そうと、レイアはマグナスに隣に並んで立った。
 ――はじめは、マグナスが名高い堅牢地神アンキセスの息子だと知って、負けるものか、という対抗意識がレイアにはあった。それが、一つ一つ、突き当たる壁に悩みながらも、ひたむきに努力するマグナスを、指揮官として信用するようになった。やがて、その信頼は、マグナス・ガラントという一人の青年への好意に変化していった。
 彼の力になりたい、そして彼を守りたい。とても簡単な、だからこそ純粋な心だった。
 誰にも負けたくない。いつも肩肘を張って、そう思っていたのに。レイアの我儘なくらいの強気の隙間に、何時の間にか肩透かしを食わせるように、マグナスは棲みついていた。
「……レイア」
 呟くような声で、マグナスがレイアの名を呼んだ。レイアは、何とか動悸を落ち着けて、「なに?」とさりげなく聞こえるように努力しながら、マグナスの呼びかけに答えて、顔だけを彼の方へ向けた。
「君は、ずっと俺の傍にいて、俺を支えてくれた。何かあると、俺はすぐに色々と考え込んでしまって……、そんな時、よく君に叱咤されたっけ」
 どこか懐かしむ口調で、マグナスは言った。
『考え込んでばかりいたって、先には進めないでしょ!』『自分が何をしたいか、何をするべきなのか、それが分かってるなら、悩んでることないじゃない』……そんな調子でレイアにハッパをかけられたことは、一度や二度ではきかない。
「だって、そうでもしないと、マグナスったら、泥沼にはまったみたいに動けなくなるんだもの」
「ああ。俺はそうやって、皆に支えられてここまで来られた。感謝しているんだ。出来なかったこと、救えなかった人、は少なくないけれど、それでも。……俺は後悔はしない。自分が進んできた道を」
「マグナス……」
「でも、終わりじゃない。まだ、これからだ。この国も――俺自身も」
 マグナスは、一度宙を仰いだ。それから、身体ごとレイアに向き直る。
「あの革命戦争の時、俺はとにかく前へ進むことで頭が一杯で……、自分の心の内側を振り返る余裕が無かった」
 革命のこと、ユミルのこと。それ以外のことを考えるゆとりを持てるほど、マグナスは器用な性格ではない。
 そして、今まで頭の中を占めていたことが終わって、張り詰めていた気持ちが解けてくると、マグナスは自分の中に一つの感情が芽生えていることを自覚するようになった。
 それが何時、生じたものかも、はっきりと分かる。
 凍土アージェントで、父と戦わねばならないのではないか、という不安にかられて、自分の胸に縋りついて泣きじゃくるレイアを抱きしめたとき。いつもは負けん気の強い彼女が、初めて見せた弱さ。あの時ほど、レイアがマグナスの心の奥底にまで入り込んできたことは無かった。
 そして、マグナスは、レイアをいじらしく――愛しいと思った。
「今ならちゃんと分かっているから、言える。レイア」
 マグナスは、一語一語を、言葉の意味を確かめるように、自分自身に言葉の意味を確認させるように、ゆっくりとレイアに語りかけた。眼を逸らさずに。
「レイア、君に……、これからも俺の傍にいて欲しい。騎士団の仲間としてではなく……、……その、一人の女性として、一人の男の俺の傍に」
 そのマグナスの言葉に、猫を思わせるレイアの青い瞳が見開かれる。
 そう言われることを、待っていなかった、と言えば嘘になる。だが、いざ現実になってみると、これは夢ではないか、本当に現実のことなのか、と俄かには信じられない気がして、レイアの口から声が紡ぎ出されるまで、少し間が空いた。
「……本気なの?マグナス、それって……」
 ようやく声が出せたと思ったら、レイアは、
(何を馬鹿なこと言ってるのよー!マグナスが、嘘ついたりはぐらかしたりすることなんて不可能な人だってことぐらい、分かりきってるのに!)
 と、あまりにも自分が抜けたことを口にした、と、かえってうろたえてしまった。
 レイアがうろたえていることに気付いているのかいないのか、マグナスは真剣な表情で彼女に応じた。
「冗談でなんか、こんなことは言えないさ。俺は本気だよ。俺は……」
 マグナスは、一旦、言葉を切った。それから、真っ直ぐにレイアの顔を見詰め、声に全身の真摯さを込めた。
「俺は、君が好きだ。出来るなら、君と一緒にこれからの人生を歩いていきたいと思っている」
 ……暫く、レイアは息が詰まる思いで、ただ、マグナスの端整な顔を呆然と見た。レイアは、ひょっとして、自分が今にも泣きそうな顔をしているのではないか、と思った。
 沈黙が二人の間を繋いでいた時間は、長かったか短かったか。
 やがて、レイアがほっ、と小さな息を吐いた。
「あなたって」
 その顔は、微笑で埋まっていた。
「何だかんだって、優柔不断っぽくしょっちゅう悩んでいたけど。傍から見ると、馬鹿馬鹿しいくらいにね」
「ひどい言われようだな」
 でも否定は出来ない、とマグナスは苦笑する。
「でも、いざっていう時には、ちゃんと決断をして、時々、周りをびっくりさせるような大胆な行動に出て……」
 ふわり、とレイアの手がマグナスの手の上に重ねられた。
「そんなマグナスだから、私は好きになったんだわ。カッコ悪いところも含めて、ね」
「レイア……」
「私も、あなたが好きよ。不器用だけど、真っ直ぐなあなたが」
 取り繕いもせずに、レイアはマグナスの告白に答えた。レイアの瞳の中に、マグナスが映っている。マグナスはやがて意を決したように、懐に手を入れた。
 そこから取り出されたのは、マグナスの掌にすっぽり収まるほどの、リボンの掛けられた天鵞絨張りの小さな箱。
 今日、この日の為に、マグナスはレイアに贈ろうと、それを用意したのだ。
 その理由。
「レイア、今日、誕生日だろう?だから……、もし良かったら、受け取ってくれないか」
「……覚えていてくれてたの。……ありがと……」
 小さな箱は、マグナスの手の上から、レイアの手の上へと移動した。
「これ、何?」
「開けてみてくれ」
 照れくさそうに、それでいて初々しい少年の笑顔で、マグナスは言った。レイアは頷いて、リボンを解き、箱の蓋を開ける。
 中に入っていたのは、指環だった。イエローゴールドの二本のリングを組み合わせて、華奢な装飾を施した意匠で、リングの周囲には小さなダイヤモンドが、ぐるりと埋め込まれていた。
「その……、まぁ何だ、俺の……約束の形だと思って欲しいんだ」
 上手い言葉が見当たらない――というより、事前に用意していた筈の台詞など、いざという時には何処かへと飛んでいってしまうのかもしれない。特に、マグナスのように、決して雄弁な方ではない青年は。
 じっと指環を凝視していたレイアは、しどろもどろなマグナスの声に、顔を上げた。
「これって、――プロポーズ、なの?」
「……まあ、そういうことだ」
「じゃあ、この指環、あなたの手で嵌めさせて」
 無邪気さと、嬉し涙にかきくれる寸前の表情が、レイアの面上で交差し、それが何ともあでやかに見える。マグナスは承諾し、目映いような心地で、壊れ物を扱う手つきでレイアの左手を取り、そっと薬指に指環を嵌めた。
 レイアの指に嵌められた指環は、一際、輝きを増したように見えた。
 レイアが笑った。マグナスはレイアの顔をよく見慣れている、と思っていたが、これほど美しいレイアの笑顔を見るのは、初めてだったような気がする。
 多分、手を互いに差し伸べたのは同時だったろう。
 マグナスはレイアの小柄な背を抱き寄せ、レイアは見た目よりも広く逞しいマグナスの肩に頭を預けた。
 それだけ――ただ、それだけで二人とも幸福感が胸を満たしていくのを感じていた。溢れるほどの愛おしさで。
「マグナス……、……私ね……」
 細い声で、レイアは囁いた。マグナスだけに聞こえる声で、独り言のように。
「……きっと、傍にいて欲しいのは私の方。あなたがいるから、私は、きっと強くいられるんだわ。……どんな暗闇の不安の中でも、あなたがいれば、恐れずに進んでいける。今までも、これからも………」
 マグナスは言葉を返しはせず、黙ってレイアを抱き締めた。
 そして、ふと思った。“運命”とは何なのだろう、と。ユミルの生命を翻弄し続けた“運命”を、マグナスは呪った。それでいて、レイアと出会えたことを、あるいは“運命”ではないか、とやはり同じマグナス自身が感じている。
 ひどい矛盾だ。そして、あまりにも自分勝手だ。都合の悪い“運命”は認めないが、自分を幸せにする“運命”は受け入れるなどとは。
 だが、マグナスはすぐに考えることをやめた。所詮、理屈を転がしているだけだ。
 レイアを愛している、と思う心は理屈ではないから――。
 これからも、お互いに守り守られて、幸福を共有していけたら。
 マグナスは、レイアを抱擁する腕に、情熱的な力を込めた。それから、何か言おうとしたが、言葉は出なかった。いや、今は言葉など必要無いのかもしれない。それぐらい、幸せだから。
 マグナスの指が、レイアの頬の上を滑った。金色の髪の毛が幾筋か、マグナスの指にかかる。彼の意図を察して、レイアは、顎を小さく上向け、柔らかく眼を閉じた。
 二人の唇が、ごく自然に重なる。
 さやさや、と風が、萌え出でたばかりの若葉を揺らす音だけが聞こえる。
 惜しみなく降り注ぐ春の日差しは、二人を祝福するように輝いていた。

END