外伝4「to the sky」

　人は、翼を持たぬが故に大空に憧れる。遥かなる蒼穹と白い雲の峰を見はるかし、決して手が届かない空、を翔けることに思いを抱く。

　竜騎士団を創設した、アーヴィノーグ家、という由緒正しい竜騎士の家系に生まれた俺は、幼い頃から他人よりもずっと空に近い位置に居た。
　馬に乗るよりも早く、竜に乗ることを覚えた俺にとって、飛竜を駆って空を飛ぶことは、呼吸をすることと同じくらい「当たり前」のことだったからだ。
　飛竜の背に乗り、風の鳴る音を耳元で聞く。大地の制約を解き放たれ、自在に青空を翔ける。
　人の身にない翼を、竜騎士は特別に与えられた。それは、神獣とも称される竜と、心を交わした者だけが得られる特権だ。だからこそ、竜騎士は、この「翼」を得たことを――竜と友であることを誇りに思い、空を舞う術を持たぬ人を守り救うために、大空に向けて羽ばたくのだ。
　世界で唯一の空を翔ける騎士達。
　それは、誇り高き、雄々しき天の騎士の姿。

　だが。
　俺は、自らの手で、俺に与えられた、その「翼」をもぎ取ってしまった。
　ただただ、突き上げてくる憎しみ、という愚かな衝動で、大地を罪なき人々の屍で埋めるために飛んだとき。守るためでもなく、救うためでもなく、ひたすら殺すために。空の、抜けるような青とは対照的な、赤黒い血と炎の花を大地に無数に咲かせるために。俺は、飛んだから。
　史上最強の竜騎士、などと言われたこの力を、俺は守るべき人たちに向けたのだ。
　その時に、俺は竜騎士たる資格を失ったのだ。

　憎かった。
　あの時は、憎悪に狂っていた。
　ひたすら、「人間」が憎かった。
　この地上に生きる、全ての人間を殺しつくしても、胸に猛る憎悪が消えないのではないか、というほどに、憎かった。
　……その憎悪は、今も昏く俺の中に燻っている。俺の中に確かにわだかまる、闇の血と対になって。俺が死なない限り、この憎悪が消え去ることはないだろう。
　だからといって、その憎悪に飲み込まれるなど、愚劣極まりなかった。

　美しい白銀の鱗と、青空と同じ青い瞳を持つ俺の友は、今でも、俺を背に乗せてくれるだろう。だが、俺は、竜騎士として、空を翔ける権利を失った。俺は、竜騎士の誇りを、自分で捨てたのだから。
　それを、血の呪縛のせいだ、と片付けてしまうのは容易い。
　俺とて、意味もなく深い憎悪を育てていたわけではないが、それで納得できるだろうか？
　抗議を口にすることも出来ぬ死者、慣れ親しんだ故国を失った者、愛する人を永遠に奪われた者……。俺のせいで、幸福を奪われた、決して少ないといえない数の人たちが。

　俺の今の命は、全ての決着を着けるため、そのためだけにある。
　全ての終わりとは、俺の命の終わり、と同義だ。
　竜騎士は、死した後、魂は空に還る、と言われている。しかし、俺は……俺には、それは許されないことだろう。俺は、父とは違う。誇り高い竜騎士として生きた、父、へクトール・Ｋ・リュート・アーヴィノーグとは違う。竜騎士の慣習として、俺は父の名を継いだというのに。父との約束も、守れなかった。父はあの曇りのない青空に還っただろうが、もし俺が死んだら、俺の魂は引き裂かれ、粉々に打ち砕かれ、無限の虚無に散ることになるだろう。
　だが、それを厭う理由はない。
　俺は、人じゃない。俺は、道具だ。間違って、意思を持って生まれてきただけの、単なる道具だ。ただ、他者のための道具となるべく生み出された、それだけの命だ。その一個の道具の命と引き換えに、数多くの人々が幸せになるのなら、安いものじゃないか。

　俺の行為を、あの娘は、泣くかもしれない。あいつは、怒るかもしれない。命を投げ捨てるようなものだ、と。だが、俺が生きているのは、全ての終止符を打つため。そのためだけに、俺は生きてきたんだ。
　自分勝手な自己陶酔の、行為だろうが、それは。
　しかし、せめて、「意思を持った道具」として、己の生命の使い方ぐらい、自分で決めてもいいだろう？
　罪には、相応しい罰がある。裁く者が居ないのならば、俺の罪は、俺が俺自身で裁く。
　分かってくれとは言わない。結局は、俺のエゴだ。
　……誰に分かるというのだろう。他者のための道具としてしか、存在できないということが、どういうことなのか。
　認めることと、受け入れることは違う。あの、俺を縛りつけようとする忌々しい血の鎖。望んだわけじゃない。この、呪わしい宿命を。
　俺が、俺自身に決着を着けるために、俺は行く。

　闇よ、あらゆる光を閉ざそうとする闇よ。忌まわしい血の軛（くびき）で、俺を縛りつけようとする闇よ。あらゆる憎悪と絶望で、俺を覆いつくそうとする闇よ。俺から、僅かな、温かく優しい思い出すら全て、欠片も残さず奪い取ろうとする闇よ。
　俺は、お前に屈服はしない。俺の魂を、お前に渡しはしない。
　俺とお前が再び見える時が、俺とお前の最期の時だ。
　俺が心を持ったのが誤りだというのなら、それを与えたのは貴様だということを、思い知らせてやる。
　断じて、俺は血の呪縛などに従ったりはしない。もう、二度と。もう、二度と闇に絡め取られはすまい。

　俺から始まった全ての厄災は、俺が全部連れて行くから。俺が生きている限り、この禍は終わらない。だから、全てを俺が終わらせる。
　その代わり、願わせて欲しい。
　どうか、大切な人たちが、俺を愛してくれた人たちが、幸せでいられるように、と。
　澄み渡った明るい青空の下で、恐れも怒りも憎しみも悲嘆もなく、彼等が笑うことが出来るように、と。
　――幸せに。
　俺のことなど忘れて、幸せに――なってくれ。
　それだけが、俺の願いだ。
　他には、何も望まないから。

　俺は、王城の上に広がる、果てなく青い空を見上げた。
　子供の頃、あんなに近かった空は、今は、目も眩むほどに、遠い。