Shadow Saga
Short Story1:side-Leonhard
「Ribbon」



「ただいま」
 兄さんの、低いよく通る声が、玄関から聞こえる。私は、半ば夢中になっていた筈の、膝の上の刺繍を、払いのけるようにしてテーブルの上に置くと、兄さんを迎えるために部屋を出た。


 休猟期に入ってすぐ、兄さんは「街に働きに出たい」と言い出した。勿論、父さんも母さんも、私も、その兄さんの希望に反対する理由なんて無かったけど。
 でも、ちょっと意外だった。どうして、と訊いたら、兄さんは「欲しいものがあるから」と答えたから。
 兄さんは、とても「欲しい」という感情が薄い人で、その兄さんの口から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。
 後から考えたら、兄さんがとても愛していたあの人に、贈り物をするためだったんだと、思う。
 とにかく、兄さんは街に行った。こんなに兄さんが長い間、近くにいないことは初めてで。私はずっと落ち着かなかったけど、その兄さんが二十日ぶりに帰ってきた。

「おかえり、兄さん!」
「ただいま、ユリアナ」
 私が二階の自分の部屋から降りていくと、兄さんは肩から荷物を下ろしているところだった。私を見ると、兄さんは微笑んだ。
「父さんと母さんは?」
「集会に行ってるわ。兄さん、疲れたでしょ、座ってて。お茶淹れるから」
 本当は、お茶淹れるのも料理を作るのも、兄さんの方が私より上手だけどね。けど、私だって、兄さんに何かしてあげたいんだもの。いつも、兄さんに何かしてもらってばかりじゃなくって。


『ユリアナは、レオンハルトが大好きだもんなあ』
 フリードリヒなんかは、からかうように、よくそう言う。
 そうよ。いいじゃない。
 兄さんはとても綺麗だし(男の人に綺麗って言うのもちょっと癪だけど)、頭はいいし、背も高いし、凄く腕のいい狩人だし、身体は細いのに力仕事も平気だし、家のこと、料理も洗濯も掃除も何でも出来るし。あ、後、声も素敵。何より、とても優しい。無口だけど、いつも優しい目で周りの人を見ている。
 私は、そんな兄さんが大好きで、小さい頃から、自他共に認める、兄さんっ子。
 だから、ずっと出かけていた兄さんが帰ってきた、それだけで、もうウキウキしている。



 ポットの中のお茶の葉が開いて、いい匂いが漂ってくる。あらかじめ暖めておいたカップにお茶を注ぐ。本当は、お客様用の特別のお茶なんだけど、いいわよね、たまには。兄さんは、お茶には砂糖もミルクも入れないから、そのままカップをソーサーに載せる。
 ちゃんと、兄さんは居間の椅子に座って、私を待っていた。
「ありがとう、ユリアナ」
 私が兄さんの前にカップを置くと、兄さんは静かな笑顔を見せる。私は、兄さんの向かい側に座り、兄さんの手がカップを取り上げて、口元に運ぶのをじっと眺めていた。黙って。

「ユリアナ」
 不意に、兄さんが私を呼ぶ。
「え、な、何?」
 私がちょっと上ずった声で返事すると、兄さんは小さな声で笑った。それから荷物を開けて、中を探り出した。
 兄さんが取り出したのは、綺麗な紙の包み。それを、兄さんは私に手渡した。
「ユリアナに、土産だ」
「わ、嬉しい! なあにこれ?」
「開けてご覧」
 兄さんの言葉に頷いて、私は包み紙を開いた。

 出てきたのは、レースのリボンだった。
「……似合うかしら?」
「大丈夫だよ」
 私はそのリボンを自分の髪に当ててみた。
 でも、私の髪はこの時は、リボンで結べるほど長くなくて。私の髪の毛は、兄さんと色は同じ黒だけど、髪質が全然違ってる。兄さんが真っ直ぐでさらさらの髪なのに対して、私の髪はふわふわした癖っ毛なので、手入れのことを考えると、伸ばすのが面倒だったから。
 それで、ちょっと困ったな、と思っていると、兄さんは「こうすればいい」と、私の手からリボンを借りて、私の頭に巻いて、結んでるみたいだった。
 勿論、自分の頭を自分で見ることは出来ないので、私が、
(兄さん、何してるんだろう……)
 と、多分、顔を疑問符で一杯にしていると、兄さんが手鏡を持ってきて、私に見せてくれた。

 鏡に映った私は、貴族のお嬢さんのつけている髪飾りみたいに、髪にリボンを飾っていた。私がびっくりして兄さんを見ると、兄さんはニコニコ笑っていた。私は何だか嬉しいような、気恥ずかしいような、妙な心地で、リボンに手をやりながら、「おかしくない?」と兄さんに訊いてみた。
「全然、おかしくない。可愛いぞ」
 我ながら簡単なもので、兄さんにそう褒められると、気恥ずかしさは何処かへすっ飛んでいって、私の中は物凄い嬉しい気持ちで一杯になった。

「……髪、伸ばそうかな」
 ふっとそんな言葉が口をついて出た。
 兄さんは私の独り言には何も言わなかったけど、私が、
「兄さんも、伸ばさない? 髪」
 と言うと、意表を突かれたみたい。
「いや、俺は……髪が長いと、邪魔だしな」
 それでも、兄さんは一笑に付したりしないで、真面目に返事してくれる。
「勿体なーい。兄さんの髪、羨ましいくらい綺麗だから、伸ばしたら、絶対もっと綺麗なのに」
 すねた口調で私が言うと、兄さんは笑いながら、ぽん、とリボンをつけた私の頭に軽く手を載せた。



 そんな他愛ない日々が、何時までも続くわけが無いことは分かっていたの。子供だった私達は、何時か必ず大人になって、新しい生活を送るようになるんだって。
 でも、あんな――突然で、残酷な、終わり方をするなんて。それまでの、平凡だったけど幸せだった日常は、全部、炎の中に飲み込まれてしまった。思い出以外は、全部。何もかも。
 そして……。


 兄さん。
 行方不明になった兄さんは、私たちの“敵”になっていた。操られて。
 私達と離れ離れになっている間に、兄さんの髪は、背中まで伸ばされていた。綺麗だったけど、でも、悪い意味で人形みたいだった、兄さん。“ただ”綺麗で、魂がない人形みたいだった。

 フリードリヒとカールが、取り戻してくれた兄さん。
 私達のところへ帰ってきた兄さんは、昔みたいに髪を短く切った。
 兄さんの中で、長い髪は辛い悔悟の記憶の象徴でしかないのね、きっと……。
 私は、何も言えなかった。
 優しい笑みを湛えていた瞳が、冬の湖みたいに凍えてしまったのを見てしまっては、何も言えなかった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「何だユリアナ、それ、欲しいのか?」
 フリードリヒが、私の手元を覗き込む。
 フリードリヒと、久しぶりに二人でゆっくりと城下を散歩中、私は露店で売られていたリボンに、ふと眼が留まった。そのレースの模様が、昔、兄さんがお土産に買ってきてくれたリボンと似ている……ような気がして。
「ええ」
 私は、フリードリヒに頷いた。
 長めに切ってもらったリボンを包んでもらい、フリードリヒが御代を払う。そのフリードリヒの左手にも、私の左手にも、薬指に同じデザインの指輪が嵌められている。

 あの“暗黒戦争”が終わった後、私達は結ばれた。物語に出てくる王子様とお姫様のように。
 戦後だというのに、ちょっと恥ずかしいくらいに盛大な結婚式を挙げて頂いた。その席に、兄さんは、いなかった。戦争が終わってすぐ、兄さんは、独りで何処かへ去ってしまったから。

 幸せな筈の私は、些細なきっかけで、兄さんの思い出を、記憶から掘り起こしてしまう。幸せなのに、幸せだった頃の面影を探して。  



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