Melt

01


 チョコレート特有の、甘く、そして微かにほろ苦い匂いがむせ返るほどに立ち込める、衛宮邸の台所。いかな芳香も、限度を越えれば悪臭と同レベルだなと、アーチャーは心もちうんざりとした顔で、洗い物に精を出していた。
 本来は、聖ウァレンティヌスが殉教した日に由来されるはずの、2月14日、恋人達の日・バレンタインデーという日。日本では、製菓会社の陰謀によってか、すっかりとチョコレートの年間消費量の二割がこの日に消費される、という国民行事レベルにまでなっている。最近では、「愛情を告白する」という本来の目的は二の次で、バレンタインのフェアやイベントで売り出される多種多様のチョコレート自体が目的にすらなっているというのは、需要と供給がマッチしている、といえなくもない。いくらあらゆる物事に対して斜に構えているとはいえ、アーチャー自身は、それを人々が楽しんでいるということまで、否定する気は毛頭無いのだが。
 ご多分にもれずして、女性の多いこの衛宮邸でも、当日はイリヤスフィールや藤村大河も誘って、皆でチョコレートパーティーをするのだという。甘いものは別腹、という言葉がある通り、女性の甘いもの好きにはほとほと感心もするものの、何でそれの準備を自分がせねばならないのか、と用意を言いつけられたアーチャーは甚だしく不本意だった。いかに、職業的シェフやパティシエ・ショコラティエには男性が多いと言っても。
 一般的な男性として、アーチャーはさほどチョコレート菓子のバリエーションに堪能なわけではなく、その旨を言ってみれば次の日には複数のレシピ本を渡されてしまった。しかし、このレシピ本の代金でチョコレートを買う、というのは駄目だったのだろうか。
 何故私が、と抗弁はしてみたが、「だってどうせ専業主夫なんだから、昼間に時間は有り余ってるでしょ、わたし達とは違って」と、横暴な言葉を元マスターに投げつけられてしまった。衛宮士郎(エミヤシロウ)は遠坂凛には基本的に勝てないし、彼女が言っていることは正論(といえば正論)であるので、恭順の意を示す他の選択肢は、アーチャーには提示すらされていなかった。アーチャーが常に家に居るのは、家主の小僧が「お前は外に働きに行かなくてもいい、家で待っていて欲しい」などと寝言をぬかすせいだ。もっとも、それをはねつけないところが最終的にはアーチャーは士郎に甘い、と言われる所以なのだが、本人は全くもってその事実に気付いていない。
 ともあれ。
 チョコレートフォンデュをメインに(さすがにチョコレートファウンテンは無理だった)、ザッハトルテやフォンダンショコラのケーキ類やら、粒のチョコレートやボンボン・ショコラは言うに及ばず、最低でも後一年くらいは見るのもうんざりだ、というくらいに様々なチョコレートを作りまくったおかげで、鼻腔の奥にまでその匂いがこびりついているような気がするアーチャーだった。もはや嗅覚疲労を起こすレベルだ。おそらく、髪や服にも匂いは移っているだろう。人型のチョコレートにでもなった気分である。そしてそうやって作られた、冷蔵庫を占拠する勢いの大量のチョコレートも、それでも彼女らは、きっと完璧に食べきってしまうのだろう。しかも、各々吟味して買ってきた友チョコの交換までするらしい。凛には、「アーチャーにもちゃんと上げるからね」と言われたが、気持ちだけで充分だ、と丁重にご辞退申し上げた。
 サーヴァントなのに胸焼けしそうな気分でアーチャーが鍋を洗っていると、凛が台所に姿を見せた。
「手伝うわ、アーチャー」
「それは助かる」
 その申し出には、厭うところは何も無かったため、アーチャーは素直に受け入れる。
 そうやって暫く、2人して食器や調理器具を洗っていたところ、凛がちらりとアーチャーに向かって視線を上げ、確認でもするかのように口を開いた。
「……で、アーチャー。勿論、あげるんでしょ」
 凛にそんなことを言われ、心から不思議そうにアーチャーは鋼と同じ色の目を瞬かせた。
「誰が誰に、何をだね」
 アーチャーのそんな返答に、凛は軽く眉根を寄せる。
「本気で言っているの、それ?」
「本気も嘘も、君が何を言いたいのか、さっぱり分からんのだが」
 凛は、アーチャーの顔をまじまじと見た後、これみよがしに溜息をついた。これだからこの男は、とか呟き、凛はアーチャーの鼻先にその細い指をびしりと突きつける。幸いにも、まだその指先には魔力はともされておらず、彼女の得意とする暴力的なガンドが発射される気配はない。
 だが、凛が発した言葉は、アーチャーにとってはあるいは、ガンド以上に破壊力があった。
「あなたが士郎に、バレンタインのチョコレートを、よ。決まってるでしょ」
 今度は、アーチャーがさも当然、といわんばかりの凛の言に盛大に顔を顰める番だった。
「それこそ、君は本気で言っているのかね? 基本、バレンタインというのは女性のイベントだろう。何故、男の私が男のヤツに、バレンタインのチョコレートなどやらねばならんのだ? それを言うなら、君からの方がいいだろう」
 だが、凛は心底呆れた、という風に腕を組んで、眉間に皺をくっきりと刻むアーチャーを見やる。
「何言ってんのよ、馬鹿ップルのくせに」
「――その扱いは、非常に不本意だ」
「今更、士郎とは何もないって言い張るわけ? あれだけいちゃいちゃしておいて?」
「……ヤツといちゃいちゃなど、した覚えはない」
 決して士郎と自分との間柄を認めようとはしないアーチャーに向かって、凛は畳み掛ける。
「大体、今のアーチャー、私とのパスが繋がってないのに、魔力すごく充実してるわよね。要するに、そういうことなんでしょ。あなたが女役で士郎に抱かれてるって」
 ずばずばと、アーチャーが答えにくいところを凛は突いてくる。これも一種の逆セクハラじゃないのか、それよりも美少女がこんなこと言っていいのか、アーチャーはそう思うのだが、凛の性格の男前さは実際に身にしみている。それこそ、生前からだ。あまりに否定を強くすると、余計に過激な言葉を浴びせかけられるだろう。藪をつついて蛇を出す必要は無い。
 一つ、わざとらしい咳払いをして、アーチャーは言った。
「……まあ、その、何だ、百歩――いや万歩くらい譲って、せいぜい情人である、ということは認めよう。だが、まかり間違っても、恋人などと、ヤツと私はそんな関係ではない。それに、そもそも元を糺せば、我々は同じ『衛宮士郎(エミヤシロウ)』なのだからな。あり得ないだろう」
 士郎とアーチャーの間に名目は魔力供給であるとはいえ、実際に肉体関係があることは事実だから、そこは一応、消極的ながら肯定はする。
「あったま堅いんだから……」
 はあ、と大仰にため息をつく凛。アーチャーが朴念仁だということは凛もよく承知はしているのだが、ここまでとは思わなかった様子だ。
「じゃあ、言い方を変えましょうか。最近、士郎の魔術、結構上達目覚しいのよ。それで、師匠としてはご褒美あげてもいいんじゃないかなって」
 なので、方向性を変えてきた。今度は、ずい、と凛はアーチャーに向かって身を乗り出してくる。
「褒美というなら、師匠の君があげればいいではないか、尚更」
 もっとも、意図的というよりも素で、アーチャーはそれを流した。自身の中の常識として、それこそバレンタインにチョコをもらうなら、ごつい男からなどよりも可愛い女の子からの方が嬉しいに決まっている、としか思えないからだ。
「あのねえ、アーチャーがあげるからご褒美になるんでしょうが。わたしだって、何か間違ってるとは思うけどね。けど、実際に士郎が一番好きなのはあなた。どうせご褒美としてバレンタインにチョコレート貰うなら、一番好きな相手からがいいに決まってるでしょ」
 熱弁である。何となく嫌な予感がして、アーチャーは念のために訊いてみた。
「……もしも、私が拒否したら?」
「そうね、10日間ほど、大師父の宝箱の中に詰まっていてもらいましょうか」
 凛がにっこりと口にしたのは、見た目はコンピューターRPGにでも出てきそうなレトロな宝箱のことである。ある意味その外見通りに、大きさは関係なく、とにかく入れてさえしまえば容積関係なく全て収めきってしまうという、5人の魔法使いのうち1人・魔導元帥ゼルレッチご謹製の、まさにでたらめな「魔法の箱」。宝箱という性質上、当然、内側からは簡単に開けることは叶わない。
 しかも、あの箱の中には、見た目だけはいやにファンシーな、内実はやることなすこと迷惑きわまりない、超愉快犯(誤用)のマジカルな杖・カレイドステッキが入っているのだ。何せ、その破壊力と来たら、あの凛をして、数日間も落ち込ませるほどである。不思議箱に箱詰めされるのも嫌だが、あの杖に関わるのはもっと嫌だ。
「……それだけは勘弁願いたい……」
「だったら、ちゃんと上げることね。チョコレート」
 凛の笑顔がやたら強圧的だと感じるのは、アーチャーだけだろうか。
 仕方が無い、100円の(チロル)チョコでも適当にくれてやればいいか、とアーチャーはそう思ったが、
「手作りのよ、手作りの。ご褒美なんだから」
 しっかり、その魂胆は見抜かれていて、釘を刺されてしまった。凛はおそらく士郎に確認をするだろうし、士郎が凛を相手にして上手に誤魔化せるとはアーチャーには全く思えない。
 何であいつのためなどに、とアーチャーは口の中でぶつぶつ文句を言いながら、せっかく片付けた道具をまた取り出す羽目になったのだった。


 そんなわけでの2月14日当日。
 大盛況のうちに、チョコレートパーティーが終わった後。
 臨時のアルバイトにかり出されていた士郎は、帰宅するなり居合わせた全員から綺麗にラッピングされた包みを次から次へと渡された。
「お疲れ様です、シロウ。日頃の感謝への、ささやかな気持ちです」
 と、セイバーの笑顔と共に贈り物をいただけるのは大変ありがたく本当に嬉しいのだが、とにかくいれば目立つ男の姿は見えなかった。最初から期待していなかった、といえば完全に嘘にはなるが、やっぱりなという気もした士郎である。
「誰かにあげちゃったりせずに、ちゃんと自分で食べるのよ」
「当たり前だろ」
「お返し、楽しみにしてるからね、お兄ちゃん!」
「ああ、頑張るよ」
 などと、和気藹々としたいかにもバレンタインらしいやりとりをして、その後はいつも通りの日常。桜が作っておいてくれた遅い夕飯を終え、泊まっていく大河やイリヤスフィールらも一緒に団欒し、順次風呂に入った後は、就寝したり思い思いに時間を過ごす。そして時間を見計らい、自身の工房でもある土蔵に士郎は向かう。
 結跏趺坐。精神を統一し、日課をこなす。
 凛に正しい魔術回路の励起方法を教わってからは、格段に修行の苦痛は減った。だからといって、間違いを教えたと切嗣を恨んでいるわけではない。魔術師の家系に生まれついたわけではなく、聖杯戦争によって肉親を失ってしまった士郎を、魔術師という業の深い存在にしたくない、と切嗣が思ったのも理解できることだからだ。
 それでも。
 魔術師の道を選ばなければ、知ることが出来なかった出会いがいくつもある。士郎は、それを得難いと思っている。
 その最たるもの。
 アーチャー。
 未来の、衛宮士郎の可能性。一つの理想の到達点。錬鉄の英雄。
 あいつと剣を交えたのも、ちょうどこの時期だったな、などと何だか懐かしさを感じる。
 5回目を数えた冬木の聖杯戦争は終わり、あれから一年。
 バレンタインか、と改めて考えられるくらいの平穏。その間に、アーチャーへの想いを自覚した士郎は彼と剣ではなく幾度となく肌を重ねる関係になった。アーチャーが士郎へどのような感情を抱いているかは決して口にされることはないが、多少自惚れを許されるのならば、負に属するものは皆無だろう。抱きたがる士郎を拒否することはあるものの、いつも必ず、ではないのがその証拠といってもいいはずだ。大体、いくら自罰精神だらけのアーチャーであっても、さすがに嫌いな男――かつての自分の過去に抱かれることを是とはするほどの自虐趣味はあるまい。
 そういえば、聖杯戦争の時はここでアーチャーから魔術へのアドバイスを受けたこともあったことを、ぼんやりと士郎が思い出していると。
 ギィ、と入り口の扉の軋む音が聞こえて、士郎は振り向いた。
「……アーチャー?」
 暗い土蔵に差し込む薄明かりの中、アーチャーの長身の姿があった。ちょうど考えている時に本人が現れるとか、タイミングが出来すぎだなと士郎は、アーチャーが歩み寄ってくるのを何となく眺めやる。
「少しはましになったか。……一応、凛の言った通りではあるな」
 士郎の本日の修行の成果をちらりと一瞥したアーチャーは、いつもの皮肉っぽい口調で言った。
「まあ、おかげさまで」
 嫌味どころか、アーチャーにしてはむしろ賞賛に近い言葉をかけてきたのには、士郎も悪い気はしない。
 すると、ぽん、とアーチャーが士郎の頭の上に何かを載せてきた。
「な、なんだ?」
 頭の丸みに沿ってずるりと落ちてくるものを受け止めた士郎は、それがタッパーであることを確認した。
 何の変哲もない、台所でよく使っている半透明の白いタッパー。
「……他意は無い。凛がお前に褒美をやれと言うから、それだけだ」
 言い訳がましく、かつさも苦々しげにアーチャーが口にする、容器の中身は。
「……チョコレート……?」
 蓋を開けてみた士郎は、目を丸くする。入れ物こそ素っ気ないものの、中に入っていたのは色とりどりのトリュフ型のチョコレート達だった。買ってきたものをわざわざタッパーに詰め直すなど、アーチャーがするわけもないので、これは紛れもなく彼の手作り品だと思しい。
「言っただろう、褒美だと。防腐剤の類いは入れていないから、さっさと食べてしまえ」
 裏付けるように、アーチャーはやはり不機嫌そうに口にした。
 なるほど、褒美をやれと元マスターに命じられてやむなく従いはしたが、せめてもの抵抗として渡すのをバレンタイン当日ではなく、日付がまたがるのを待っていたのかと士郎は得心して、頬を緩ませる。その辺りの機微を推察できるくらいに、士郎もアーチャーの扱いに少しは慣れてきたし、後は単純に好きな相手からチョコレートをもらえて嬉しい、という心理である。
「……ん、ありがとうな、アーチャー」
「礼なら凛に言え」
「いや、これくれたのお前なんだから、お前に言うのが筋だろ」
「……ふん、では渡したからな」
 と、アーチャーが身を翻そうとするのを、士郎は咄嗟に手を掴み止めた。

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