暑さ寒さも彼岸まで、と俗に言う。秋分の日であるこの日、照りつける陽射しはまだ暑くて汗ばむものの、それでも真夏の、じりじりと肌を焦げ付かせるのではないかというほどの苛烈さは、確かに遠ざかりつつある。天の青さも、鮮やかさよりも清澄さが勝ってきた、気がする。夏空の風物詩である入道雲――積乱雲は既に空から撤退して久しく、秋の季語であるところの、うろこ雲とか鰯雲とか呼ばれる絹積雲が、存在感を主張していた。
吹きつける風に、少し秋の気配を感じる。日中の暑熱はともかくとして、朝晩は徐々に涼しくなってきた。夜に窓を開けっぱなしで寝てしまえば、翌日には風邪を引いてしまう可能性が高いだろう。
昼と夜の長さが同じ時間になる、秋彼岸の中日である夏と秋の境目の日の午後。
柳洞寺の裏手の山道を歩く、背の高い人影があった。
片手には柄杓を入れた水桶を持ち、片手には明らかに墓前に供えると思しい菊をまとめた仏前花と、線香の束を携えたその姿は、何処から見ても墓参に来た人間だ。傍目には。
何処から見ても人間にしか見えないが、彼は正しい意味での人間ではなかった。その本質は、既に人間としての生を終え、人でありながら死後に精霊の域にまで昇格され、生命の輪廻から外れた“座”と呼ばれる領域に押し上げられた存在である『英霊』だからだ。
(しかし、死人が死人の墓参りとはな……。全く、たいした孝行息子だ)
皮肉げに唇を歪め、アーチャーはさくさくと土を踏みしめて歩く。
生前は、ついぞ足を向けることがなかった、彼の養父だった人、衛宮切嗣の墓へと。
切嗣の墓は、綺麗に手入れされていた。「
アーチャーは、柄杓で水をくみ上げ、墓石に注ぐ。繰り返し繰り返し、墓石が濡れ光るまで。掛け水は、故人の霊を清めるだけでなく、故人に捧げる食べ物の意もあるという。
それから花を供え、線香を上げる。今まで墓参りなどしたことがないから、全てが見様見真似だったが、死者を悼む心さえあれば、霊前の作法の正否など、きっとさほど問題でもないに違いない。
数珠を取り出して、合掌する。
(……切嗣……)
もっと早くに来た方が良かったのか、それとも来ないままの方が良かったのか。
正義の味方になる夢は俺が叶えてやると、切嗣に誓った。生まれ持った髪や肌の色や、瞳の色が変わってしまっても、自分の身命の全てをかけても、その理想を実現させようとした。世界と契約し、死後にこの身を英霊としてまで、正義の味方を貫こうとした。
だが、彼が求めた正義の味方という理想の果てに待っていたのは、ただの“掃除屋”という任だった。霊長の守護者といえば聞こえはいいが、実際は、人類という種を存続させるために、妨げとなる人間を殺し続けるしかない、虐殺者も同様だった。そこには自身の意思の介在する余地など無い。拒むことなど、ましてや不可能だ。世界と契約した時点で、アーチャー、いや、英霊エミヤは世界の所持する「もの」となったのだから。
(あんたは、今のオレを見たら怒るかな……)
切嗣が少年の頃に憧れた、正義の味方は、きっとこんなモノではなかっただろう。こんな「正義の味方」の傍らには、幸せに微笑む世界など存在しないのだから。
生前も、死後も報われることなどなかった。それを恨むつもりは毛頭ない。間違っていたのは自分自身だけだった。オレは、英雄になんてなるべきではなかった。
だからといって、さすがに、今ここで生きている衛宮士郎への殺意はもう無い。あの衛宮士郎は、このエミヤシロウへは繋がらないだろう。『俺は、お前にはならない』と大見得を切られた以上は、そうでなくては困る。
それでも、アーチャーが生前、“衛宮士郎であった”過去の厳然たる事実は、覆しようがない。胸の奥を探れば、今もなお、自分への憎悪の火種は燻り続けている。抱き続けた理想に裏切られても、人の醜さをどれだけ見せつけられても、彼は自分以外を憎めなかった。
不意に、アーチャーは目を開けた。瞼の下から現れる色は、衛宮士郎の日本人らしい琥珀色と違い、色彩を喪った鋼色だ。
「……やあ。久しぶり、と言っていいのかな、この際」
何の前置きも無く、菊の花びらが一枚、はらりと落ちた。それを合図にしたように、立ち昇る線香のくゆらす香りとは違う、紫煙の何処と無く苦さを感じさせるにおいと共に、そんな声がアーチャーの背後から聞こえてきた。
「……幽霊が出るならこんな昼間ではなく夜だろうし、祖霊がこの世に帰ってくるのは、盆のはずだが」
そう言ってから、アーチャーは背中を振り返る。そこに立っていたのは、予想と寸分も違わぬ人影だった。
ぼさぼさの蓬髪に無精髭、着古されてよれたコート姿。唇の端に咥えられた煙草。一見、実に冴えない風体。
「うん、まあ、僕もそうは思うんだがね」
暢気な調子で、煙草を指に挟んで片手を上げる衛宮切嗣は、笑った。
「擬似召喚みたいなものだろう。単なる幽魂が、ずっと遥かに上位の存在である英霊に呼ばれちゃ、ね」
「……呼んだ、つもりはないのだが」
「つもりが無くても、僕を呼ぶ声が聞こえたんだから、しょうがない」
アーチャーは立ち上がる。そうすると、子供の頃はとても大きいと思っていた切嗣よりも、目線がかなり高い自分に嫌でも気付かされる。そのことが、少し寂しく感じられた。
「しかしまあ、随分と大きくなったんだねえ、士郎」
切嗣が、感慨深げにアーチャーを見上げた。アーチャーはそれには答えず、握っていた数珠をポケットに仕舞い、微かに眉をしかめた。
「煙草」
「ん?」
「墓地ではやめたまえよ」
底の方に少し水が残っている水桶を、アーチャーは差し出す。「厳しいなあ、士郎は」などと言いながら、それでも切嗣は素直に煙草を水につけて消した。それを見届けてから、アーチャーは苦情を申し立てた。
「それと、衛宮士郎は自宅にいる。私は、アーチャーのサーヴァントであって、衛宮士郎ではない」
「士郎はここにいるじゃないか。君も、衛宮士郎だろう」
やめてくれ。
違う。
衛宮士郎、と呼ばれるべき存在は、この現在の時間を確かに生きているあの少年であって、自分ではないのだ。私は――オレは、かつて衛宮士郎だったもの、衛宮士郎のなれの果てに過ぎない。衛宮士郎ではない、英霊エミヤなのだ。
切嗣が手を伸ばす。伸ばされた指先は、アーチャーの白くなった髪を、くしゃりと撫でた。まだ幼かった士郎に、よくやっていたのと同じ仕草で。
「よく、頑張ったね、士郎」
穏やかに、笑う。
「――怒らないのか、爺さん。オレを」
他人行儀に切嗣、と呼ぶ筈が、アーチャーは失敗した。思わず、口をついて出たのは馴染んだ呼び方だった。それこそが、どんなに否定しても、アーチャーを衛宮士郎とイコールで繋ぐ符号だ。そして、切嗣の姿を目の前にして、口調さえもが、昔の――衛宮士郎であった時のものに戻っていた。
「何故?」
切嗣が、アーチャーの発した疑問に対して、不思議そうに頭を傾ける。
記憶が磨耗して曖昧になってもなお、忘れられない光景がある。冬の月輝く夜空の下、かつての夢を語る切嗣と、幼かった
あの笑顔を向けられる価値は、今の自分には無い。
「オレは……理想を求め足掻き続けた末に、姿形の変化だけならまだしも、人ですらもなくなった。英霊などと……正義の味方どころか、世界に縛られる永遠の殺戮人形だ。結局はオレは道を誤った。髪の色も目の色も肌の色も変わってしまった、今のオレを見て、誰が元は衛宮士郎だったと分かる? オレ本人でさえ、もう信じられないのに」
俯いたまま軋むような声を出すアーチャーの頭に、切嗣はぽんぽんと優しく手を載せた。
「僕は怒らないよ、士郎。誰が士郎を罵倒しても、責めても、蔑んでも、僕は君を怒らない。士郎、卑下することはない。誇って良いんだよ。ちゃんと、君は約束通り僕の夢をカタチにしてくれたんだって」
「無理だ、オレは……」
「士郎、君が自身を許せなくても、僕が君を許す。君が僕に
「あんなのは、現実を何も知らない子供の戯言そのものじゃないか!」
「それでも、僕は救われたんだ。士郎」
頭上にある、天は何処までも高い。決して手に届かない理想の体現のように。ついとアーチャーから身を離した切嗣は、空を仰ぎ見て、眩しそうに目を細めた。
「それに、それを言うなら、僕の方が士郎に幻滅されたんじゃないかと思ってたよ。どれだけ僕が手段を選ばずに、下衆とも外道とも言われるやり方で“魔術師殺し”をやっていたか、士郎も今は知っているだろう? そして、僕が君から全てを奪った元凶であることも」
切嗣が参加した、第四次聖杯戦争の顛末は、あくまでも忌まわしき語り部である言峰綺礼の目というフィルターを通して、ではあったが、確かにアーチャーは聞き知っていた。その当時に、切嗣のサーヴァントであったセイバーの口からも、言いにくそうにかつてのマスターを遠回しに婉曲にだが、冷酷非情な男だったと詰るのを聞いた。
だが、他人の評が何だというのか。アーチャー――エミヤシロウにとって、衛宮切嗣とは憧れのヒーローの名だった。切嗣の過去を知ってもなお、その思いは変わらない。
「関係ない。誰が何を言っても、衛宮切嗣は、オレの正義の味方だったことに、変わりは無い」
「それと、同じことさ」
鮮やかに、切嗣は言う。アーチャーは瞠目した。そのまま、切嗣は語を継いだ。
「士郎、君は僕の正義の味方だよ」
菊の花が香る。アーチャーは真っ直ぐに切嗣を見て、切嗣は真っ直ぐにアーチャーを見た。
やがて、ゆっくりとアーチャーは表情を
「……さて、名残は尽きねど、そろそろ戻らないとな。けど、また来るよ。士郎が、僕にまた会いたいと思って呼んでくれるなら、ね」
あるかなしかの微風に、切嗣のコートの裾が揺れた。
「爺さ……」
かりそめの再会に
僅かの間を置いて。
互いの生前には、どうしても気恥ずかしくて、意地を張って口に出来なかった一言を、声に出した。
「……親父」
切嗣は、目を丸くした。それから、「ありがとう」と、心底照れくさそうに笑って、その体はすうっと秋の気配漂う空気の中に溶け消えていった。
「ありがとう、か……。本来ならば、礼を言うべきはきっと私のほうなのにな」
衛宮切嗣の名残の一片が光と影のあわいに完全に消え去るまで、その場に留まっていたアーチャーは、静かに
アーチャーが遠坂邸に戻ると、留守電のランプがせっかちにちかちかと点滅していた。
再生ボタンを押してみる。
『アーチャー! この留守電聞いたら、すぐに衛宮邸まで来て! すぐによ! いいわね!!』
と、全く有無を言わせぬ調子で、彼を現世に呼び出した少女が一方的に通告してきた。やれやれ、と軽く息を吐くと、アーチャーは戻ってきたばかりの遠坂邸を出て、指定先へと向かうことにした。
むせ返るほどの、大量に炊かれたらしい小豆の匂い。真剣な顔で、セイバーがすりこぎを持ってごりごりとしているのは、どうやらゴマらしい。その傍らでは、桜がもち米とうるち米を混ぜ合わせて蒸した、半搗きのもちを手際よく丸めてはあんこで包み込みつつ、ライダーにやり方を教えている。
てんやわんやの衛宮邸の居間。呆れた、と言わんばかりの口調でアーチャーは、呼びつけてきた相手に向かって声を掛けた。
「……凛。何の騒ぎなんだね、これは」
黄粉のおはぎを作っていた凛は、顔だけをアーチャーに向ける。
「急に士郎が、お彼岸だからおはぎを作るって言い出したのよ。ここの家に出入りする人数が人数の上に、セイバーもいるんだから、生半可な量で足りるわけないってのに。アーチャーったら、そういうときに限っていないんだから!」
「……」
思わず、アーチャーは絶句する。
この家で、彼岸に偲ばれる亡くなった人とは、1人しかいない。
何という
肝心の士郎の方はといえば、小豆が足りなくなったために、商店街に買い足しに行ったということで、今は姿が見えないが。
「ほら、そんな所で突っ立ってないで、早く手伝って!」
「一体、どれだけの量を作るつもりなのだ……」
凛に急かされて、アーチャーはこそりと独りごちた。
ふと、微かに鼻腔をくすぐる清爽な馨りに気付く。見ると、花瓶に菊の花が活けられていた。
「……全く……」
いっそ感心するほどの、大した一致振りだ。
『君も、衛宮士郎だろう』
居間の片隅にひっそりと掲げられた衛宮切嗣の遺影が、何ともいえない笑いを浮かべたように見えたのは、アーチャーの気のせいだったろうか。
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