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 世界よ、オレはお前と契約してやる。オレの死後の魂を、全て捧げよう。だから、力をくれ。英雄の力を、オレにくれ。オレが願う正義のための力を、奇跡を、――オレは、願う。オレは求める。そのためなら、オレ自身の命なんて、少しも惜しくない。


 鉄扉と石壁に囲まれた独房の中、エミヤはただその時を待っていた。
 尋問という名の度重なる拷問の傷痕は、もはや痛みすら感じない。どうせ最終的には殺すのだから、という理由で、ろくに手当てもされなかったからだ。ただ、処刑の時まで生かされているだけ。そして、厄介な魔術を行使できぬように、両手も手枷で厳重に戒められている。ご丁寧に、足の腱も切られた。このような虜囚の身となってから、どれだけの時間が経ったろうか。
 処刑は明日だと告げられたが、時計どころか陽光すらろくに射さぬ、それどころか外界の音もほとんど遮断されたこの場で、明日とやらがいつ来るのか、エミヤには分からない。
 裁判とは名ばかりの法廷の下、エミヤが処刑される理由。
 その罪名は、人道に対する罪、だという。
 エミヤが正義だと行った全ては、単なる殺戮だと否定された。他ならぬ、道を同じくしていた筈の彼自身の友人の告発に。
 己の罪を否定する気はない。この世には絶対の正義なんて無い。より多くの人々を救うためにと、彼が幾つもの命を犠牲にしてきたのは確かなのだから。だから、いつか必ずその報いを受けるのだと、心の何処かで覚悟をしていた。幼い日に抱いた理想が、いつの間にか歪んでしまったと気づいた時。
 結局、エミヤにとって、自身の生命とは故郷で大火に遭った日にとっくに失ったもので、その後はただ正義という――蜃気楼のような理想を体現するための燃料にすぎなかった。
 その燃料も、もうすぐ司法の手によって断たれる。正義の味方として生きようとしながら、単なる人を殺しすぎた犯罪者として、エミヤは異郷の地で果てるのだ。
 ふと、エミヤは今までの自分の歩みを振り返る。思考すること以外、今の彼には何もすることが無かった。
(これも走馬灯というのだろうか)
 手枷によって同時にしか動かない両手で、前髪をかきあげる。
 最初に色が変わったのは、この髪だった。
 伸びてきて目に入った前髪が、白くなっていた。髭をあたってみても、剃刀につくのは自分の生来の赤銅色とは違う、白い色。
 それを確認した目も、いつしか琥珀色の虹彩を失い、無機質な鋼色と化していた。
 肌の色が変わってきたのだって、はじめは日焼けだと思っていた。だが、服の下に隠れた皮膚までが焦げ付いた色に変色してきた、と気付いた時、以前に同じ経験があったことを思い出した。
 もう、現在とはあまりにかけ離れて、今では自分のものとは思い難いほど遠い過去になってしまった、日本で生きていた高校生だった、あの時。魔術師同士の戦いである聖杯戦争に巻き込まれたエミヤは、アインツベルンの森にて、強大すぎる敵・バーサーカーに抗するために自分の能力の限界を超えて、自らのサーヴァントであったセイバーの失われし愛剣、“勝利すべき黄金の剣(カリバーン)”を投影した。その時、代償として術の反動により、皮膚の一部が黒く焦げ付いてしまった。あの時と、同じだった。
 生まれ育った日本を離れて以来、ずっと戦場に身を置いて、エミヤは戦うために投影を繰り返した。その焦げ付きは、今やエミヤの全身をくまなく覆っている。あたかも、それが生まれついての彼の肌の色であったかのように。
 声だって、一度戦闘時に声帯を傷つけられてから、以前よりも随分と低いものになっていて、自分で自分の声を聞いてぎょっとした。今までの自分の声とは違う、だが、確かに聞いたことのある声に。
 まさか、と思った。だから、確認しようと思った。
 果たして。
 鏡に映った己は、既に見知った「衛宮士郎」ではなかった。
「――はっ……」
 笑おうとした。失敗した。
 額に落ちかかっていた前髪を上げてみる。完璧だった。鏡の向こうから、あの男が自分を見ている。
 遠坂凛が召喚した、弓兵のサーヴァント。
「……アーチャー」
 エミヤと全く同時に、鏡の中の男の唇の形も同じ名を呟いた。
 ああ。
 そういうことだったのだ。
 あの男が、時々、刺すような眼を自分に向けてきていたのは。憎々しげに突き放しながらも、それでいて的確な助言を与えてきたことも。
 あいつはオレで、オレはあいつだったからだ。過去の自分と、未来の自分。英霊エミヤ、衛宮士郎(エミヤシロウ)
 最後に見たあの背中。遠いと思っていたものが、実は自分の中にあったなんて。
 まるで、メビウスの輪。
 追憶の中で、遠坂凛が怒る。
「ちょっと士郎、何なのその格好! まるきりアーチャー本人じゃないの! もう、アンタってば、本当に何処まで馬鹿なのよ!?」
 と、あの頃の少女のままで。ロンドンで別れて以来、凛とは会っていないため、今の彼女がどんな姿かはエミヤに知る術はなかったから。ただ、とても美しい少女だったから、やはりとても美しい女性になっているだろう、とは想像する。
 凛はきっと元気にしているだろう。多分、藤ねえも。桜はどうだろう。イリヤは、生き延びることが出来ているのだろうか。高校の時の同級生達はどうしているだろう。懐かしい冬の街に住む、懐かしい人たちの顔が、エミヤの脳裏に思い浮かんでは消えていく。
 誰かを助けられるのなら、命なんて惜しくない。そんなオレを、色んな人が叱ったっけ。オレの生き方を歪すぎる、と。狂っている、と。金の髪の少女が、哀しそうな翠緑の瞳を向けてくる。
 ああ――セイバー……。たった2週間だけ、共にいた少女。聖杯戦争に巻き込まれた衛宮士郎が偶然に呼び寄せたサーヴァント。記憶も朧な面影になっていたのに、今では、その姿もその声も、はっきりと思い出せる。
 ブリテンの偉大なる王アーサー・ペンドラゴンとして、短い生涯を駆け抜けた、勇壮な美しい騎士王。英霊アルトリア。
 平凡な少年だった衛宮士郎が、愛した永遠の少女。
 自分がもうすぐ人でなくなることを、彼女はどう思うだろうか。朝陽の中で、「愛しています」と自分に告げて、光の中に溶けていったあの少女は。
 最期まで彼女に人であってくれと願ったオレは、英霊になる。
 それでもオレは、自分自身の選択に後悔なんてしない。死すべき百人を救うために奇跡を願ったことを、オレは間違ってなんかいない。
 心の中は奇妙に静まり返り、死への恐れはエミヤの中の何処を探しても存在しなかった。死が待ち遠しいわけではないが、世界と契約した以上、彼にはまだこれから次のステップが待ち受けている。
 ふと、エミヤは顔を上げた。
 ほぼ同時に、錆びた蝶番が立てる軋み音と共に、分厚い鉄扉が開かれた。
「……エミヤ」
 そういえば、「シロウ」や「士郎」ではなく、「エミヤ」と呼ばれることに違和感を持たなくなったのは、何時からだっただろう。
「――君か」
 呼びかけに応じ、エミヤは壁に背を当てて座り込んだ姿勢のままで、友人だった――自身では紛れもなく友人だと思っていた男を見た。もはや自力で立ち上がることもできぬほど、エミヤの体力は憔悴しきっていた。
 それでも、怒りも憎しみもなく、鋼と同じ色になった瞳をエミヤは男に向けた。
「司法取引に応じなかった、と聞いた」
 男が口を開く。
 何故今更になってオレの前に姿を見せる気になったのかと思えば、なるほど、「あれ」を確認したかったのか、と納得したエミヤは、
「……残念だったな」
 嘲るでもなく、淡々と言った。
「私の魔術は、魂ごと私自身が全て持っていく。私の死骸の何処を探しても、魔術協会が欲しがるサンプルなど回収できんよ」
「な、何……エミヤ、お前はまさか……」
 友人が、魔術協会と裏で取引をしていたことを知っていた、と暗に告げながら、エミヤはそれでも恨み言は言わなかった。
 時計塔への留学中、魔術適性を調べた魔術師によって、エミヤは禁呪とも言われる大魔術――剣を内包した固有結界“無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス)”を作り出すことに特化した魔術使いであることが判明した。そのため、封印指定を受けたエミヤは時計塔から姿を消したのだ。
 理想とする正義を、この手で履行するために。
 エミヤが捕縛されたのは、彼を恐れた司法だけでなく、その禁断の魔術を手に入れたい魔術協会の意向もあったのだ。
「私は“世界”と契約した。私の魂は、英霊として“座”に引き上げられる」
 ――死して、なお。
 その言葉を聞いた男は、思わず激昂をエミヤに叩きつけた。
「お前は死んだ後も、正義の味方を続けるつもりか!?」
「何故、君が怒るのだ?」
 エミヤは心底から不思議そうな顔を、男に見せる。
 暫くの間、そんなエミヤを見つめた後、だからお前が恐ろしかったのだと、男は声を震わせて告げ、独房から去っていった。
 オレは、誰も悲しみで泣くことのない世界が欲しかっただけだと――エミヤはうっすらと笑った。

 そして、エミヤの知らぬままに夜が明ける。
 後ろ手に縛られ、目に黒布で覆いをかけられたまま、エミヤは処刑台に向かわされる。
 首に縄を掛けられると、足元の台が消失する。徐々に気道が圧迫され、呼吸が奪われていく。意識もそれに応じて薄れていく。
『シロウ』
 遠くなる意識の中、はっきりと少女の声が聞こえた。
 その懐かしく愛しい呼び声に向かって、エミヤは飛ぼうと思った。
 それが、エミヤが、人であった時の最後の記憶だった。


 ――こうして、人間「衛宮士郎」は死んだ。
 それは、始まりの終わり。終わりの始まり。

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