衛宮士郎の死


 衛宮士郎が死んだ。
 自分が助けたはずの相手に裏切られて、殺されたのだという。
 久しぶりに、ロンドンの時計塔から日本の冬木市に帰省していた遠坂凛は、自分の家でその知らせを受け取った。
 あの時、わたしはアイツを止めるべきだったんだろうか。
 無味乾燥な報告書の文字の羅列を眺め、凛は士郎と別れた日のことを思い出す。

「ごめん、遠坂。けど、俺、どうしても」

 理想を追い駆けたいんだ、と、士郎は凛に告げた。講義が休みの日、一緒に観光に行ったロンドン橋の上で。ちなみに、その時凛はあまりに唐突な言い様にムカついたので、彼を冬のテムズ河に突き落とし、盛大な水飛沫を上げさせたりしたのだが。
 正義の味方になる。魔術師としては半端な存在であった士郎は、高校卒業後に凛の従者として勉学のために一緒にロンドンまでやって来て――基礎的な素養を収めただけで、その一言を残して日本に戻っていった。そして、彼の養父であった衛宮切嗣と同じように港から船に乗って冬木を出て行き、衛宮切嗣と違って、二度と帰ってこなかった。
 あんなのが、永遠の別れになるなんて思ってもみなかった。

 あれから、凛は士郎に直接会うことはなかった。
 だが、その動向は、士郎の友人としてではなく、第三者的な立場としてはそれなりには知っていた。
 封印指定。
 衛宮士郎は、魔術協会からそれを受けていたからだ。
 学問や研究では習得の不可能な、稀有な才能を持った魔術師に与えられる、最高級の栄誉にして、最大級の禍難。神秘の確保をこそ最重要視する魔術協会は、奇跡の技持つ魔術師を、貴重なサンプルとして保存のために「保護」する。だが、当の魔術師にしてみれば、その時点で協会に文字通り封印されることになるわけであり、それ以後の一生涯を無為に過ごすことになる。であるから、封印指定を受けた魔術師は、大抵が協会を離れて逃亡の道を選ぶ。
 大した力を持たない、半人前でしかない魔術師の衛宮士郎が、封印指定を受けた理由。
 それは、彼が魔法に極めて近い魔術――術者の心象風景によって、世界そのものを塗り潰し、異界へと変える「固有結界」に特化した魔術使いだったからだ。
 奇跡と称される、魔術師達の目指す到達点の一つ。最初から、衛宮士郎は知らずしてそこに立っていたのだ。
 無数の剣立つ丘に、1人。
 一時期とはいえ、凛は確かに士郎の師匠だった。だから、士郎の件で、何度か凛は協会から接触を受けた。
 ――しかし、あれを本当に衛宮士郎についての報告、と言っていいのだろうか。
 何度も目にした報告書の中で、衛宮士郎は、いつしか「衛宮士郎」ではなく、「エミヤシロウ」、あるいは単に「エミヤ」、そう呼ばれるようになっていた。死神とか、人の形をした災厄とか、殺戮機械とか、およそ彼の目指したものとは全く違う形容詞を冠して。
 士郎は、記述の中で、世界各地の紛争地帯に現れては、時には秘匿されるべき魔術を行使してまで、人々を助け続けた。そして、誰かを助けるために、幾人もの人間を殺し続けた。
 封印指定執行者の手を逃れ、何年も何年もそれを繰り返し、そして、士郎は遂に力尽きた。
 彼の養父であった衛宮切嗣は、悪名の誉れ高い“魔術師殺し”だった。とにかく、悪辣だろうと卑劣だろうと手段を全く選ばず、むしろ徹底して姦計を好んで用い、確実に敵を消すそのやり口は魔術師の中で嫌悪されていた。
 衛宮士郎は、血の繋がりこそないものの、そのくせ養父にそっくりだ、いや、衛宮切嗣以上に冷酷非情だと口さがない連中は言う。
 本当にそうだろうか。
 あのお人よしだった衛宮士郎は、凛の知らない人間になってしまったのだろうか。


 士郎の死の知らせと一緒に同封されていた、彼の写真を凛は改めて眺めやる。
 その姿は。
 衛宮士郎ではなく、全く別の、別だと思っていた人物を思い起こさせた。
 記憶の波の向こう、年月に埋もれつつあったかの人の面影を、鮮烈に。
 凛がまだ高校2年生だった頃に、この冬木で起こった聖杯戦争。その戦争に、彼女がマスターとして参加した際、呼び出した弓兵のサーヴァント。
 赤い外套を纏い、現実主義者で挨拶のように厭味を言う皮肉屋のくせに、妙に子供っぽいところがあった、謎の英霊。乱暴な召喚のせいで記憶が混乱し、自分が何者か思い出せないと言い張って、最後まで凛に真名を明かすことなく、恐ろしすぎる強敵(バーサーカー)から凛達を逃すために盾となり、散っていった――アーチャー。
 エミヤシロウの、元々の赤銅色の髪や日本人らしい肌の色は失われ、代わりに現れていた色は、赤い弓騎士と同じ、色の抜けた白い髪と焼けついた褐色の肌。琥珀色だった双眸は、鋼色に。写真の中の士郎に、仮に赤い外套を着せてみれば、きっとアーチャー本人になるだろう。
 薄々と感づいていなかったといえば、嘘になる。高校を卒業する頃から、士郎の背は急激に伸び始めた。前は凛より少し高いだけだった背丈は、いつの間にか伸び上がらねば顔が見えないくらい高くなっていた。
 その士郎の背が。
 アインツベルン城で、最後に見たあの広い背中に。自分が死ぬことを分かって、それでも揺るぎなく敢然と敵へと立ち向かっていったアーチャーの背に。彼に、士郎が日に日に似てくることを、凛は気付いていながら、見ない振りをしていた。
 だって、気付きたくなんかなかったから。
 幾つものヒントを、アーチャーと士郎は残していたけれど。
 凛が、ランサーに心臓を貫かれた士郎を助けた夜、アーチャーは「落し物だ」と、その時に使った父・時臣の形見のペンダントを渡してきた。しかし、世界に一つしかない古代芸術(アーティファクト)のそれは、士郎も何故か同じ物を持っていた。
 アインツベルンの森で、バーサーカーを倒した時。士郎はセイバーの“勝利すべき黄金の剣(カリバーン)”を己の限界を超えて投影し、その代償として肌の一部が黒く変色してしまった。――アーチャーの肌の色と、よく似た色に。
 知りたくなど無かった。
 一見、全く重ならない少年と青年は、根っこの部分でどうしようもなく同一の存在だったのだ。
 心底までお人よしで、自分の命は常に勘定に入ってなくて、自分は傷ついても死んでも構わないが、誰かを助けたい。
 そうやって、自分を大事にしなかったあの男は。
 理想のために、躊躇うことなく死後の自分を世界に売り渡したのだと。
 夕日の色で染められた校庭で、1人届くはずも無い高さの高飛びのバーに挑み続けていた少年。あの少年の理想の到達点が、あの赤い弓兵だったと。
 死してなお、正義の味方であり続けるために――。


「貴方は馬鹿よ、士郎」
 凛は呟いた。
「馬鹿は死ななきゃ治らないって言うけど、貴方の馬鹿は死んでも治らなかったようね――アーチャー……」
 ぽつり、と涙が写真の上に落ちた。
 悲しいよりも、悔しかった。
「馬鹿よ馬鹿、本当に馬鹿、大馬鹿! あんなにセイバーを英霊の呪いから解き放そうとしておいて、自分が人間でなくなっちゃうなんて、何なのよ……」
 凛は知っている。
 士郎が、聖杯戦争の際、偶然に呼び出すことになった剣騎士のサーヴァントであるセイバーを、愛したことを。
 伝説のアーサー王として名を残しながら、実はその正体はアルトリアという少女だった彼女は、自身の人生を深く悔やんでいた。自分は王になるべきではなかった、王に相応しい人物はもっと他にいるはずだった、と、聖杯という万能の願望器を使い、王の選定から全てをやり直すことを望んでいた。死の一歩手前で、サーヴァントとして召喚され続けながら。
 その事実を知った士郎は、セイバーの夢からの解放を願った。彼女が今までの生き方を受け入れ、人として生を終えることを心から望んだ。セイバーを愛するが故に、彼女が自身を否定することなく、最期まで誇り高く()れるようにと。
 そして、士郎自身の魂は、もう二度と人として死ねなくなってしまった。
 “英霊の座”に到った士郎は、彼が選んだように、「正義の味方」として戦い続けるのだろう。永遠に。
「本当に、それで良かったの? 士郎……」
 もう一度、写真の中の、衛宮士郎ともアーチャーともつかぬ青年を見る。
 鋼色の眼差しは、琥珀色だった時の目よりもずっと厳しく。ぐっと強く引き結ばれた口元が、冷たい印象を与える――といいたいところだが、今にも、照れたような不貞腐れたような、懐かしい表情を浮かべそうに見えた。
 けれど、もう。
 衛宮士郎は、衛宮士郎ではなくなってしまった。
 それが、どうしようもなく、凛には悔しかった。
 どれだけたくさんの人を助けたって。
 結局は、最も身近で自分を心配していた人達のことを、幸せには出来なかったということに、あの馬鹿は絶対に気付かないだろうということが。桜も大河もイリヤも、勿論、凛も、士郎がいつか帰ってくることを待っていたのに。
「何が、正義の味方よ」
 低声(こごえ)で短く呪文を唱えると、凛の手にしていた写真にぼっと火がついた。炎はあっという間に写真を焼き尽くし、凛の掌に小さな灰の塊だけを残した。
 それが、彼への手向けの代わり。
 瞳の端に少しだけ残っていた涙を拭う。
「忘れてなんかやらないから」
 士郎のことも、アーチャーのことも。
 かつての聖杯戦争で、召喚を間違えた凛のせいでアーチャーが突然出現する羽目になった、遠坂邸の居間。
 凛は、あまりに愚かであまりに(いびつ)で――あまりに真っ直ぐだった、1人の少年と1人の青年のために、祈った。何に対しての祈りか分からなかったけれど、ただ。

 あの愛しいまでの愚直な魂が、どうかせめて、少しでも報われますようにと。

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